■1945年6月3日に撮影された1枚の写真

終戦のおよそ2か月前に撮影された1枚の写真。中央のアメリカ兵は、後ろ手に縛られているとみられ、隣に立つ日本兵は左手で、その縄をしっかりと握りしめています。

1945年6月3日、南さつま市万世地区の海岸に米軍機が不時着。操縦していたパイロットが、捕虜としてとらえられました。その直後に撮影された写真です。

(鮫島格さん)「この道路をずっと歩いて行った」

万世地区の研究を続ける鮫島格さん、83歳。77年前のあの日、連行されるアメリカ兵の捕虜を目撃しました。当時6歳でした。

当時6歳 米軍捕虜を建物の陰からのぞいた


(鮫島格さん)
「背が高いから、うわっと思って、こわごわと建物の陰からのぞいた」


知覧特攻平和会館や郷土誌などによると、捕虜となったのはアメリカ海軍のエドワード・ディクソン・ジュニア中尉。
1945年6月3日、ディクソン中尉の操縦する戦闘機は、空中戦の末、日本軍機に撃墜され、相星川河口の海岸に不時着。その後日本軍にとらえられ、現場から当時の公民館までのおよそ3.2キロを歩いて連行されました。

初めて見る敵国の兵士。護送ルートとなった現在の国道226号沿いは、人だかりができたといいます。


(鮫島格さん)
「通りにはいろんな人が出てきていた。おじは捕虜をたたいたと言っていた。親族を南方戦線で失った人も結構いたはずだから、血気にはやってたたいたのだと思う」


万世地区は太平洋戦争当時、日本陸軍の特攻基地、万世飛行場もあったことから、アメリカ軍の空襲を受けました。

当時、飛行場近くに暮らしていた高木敏行さん(89)。空襲で自宅を焼かれました。
3月29日の空襲では近所が爆撃され19人が死亡。同じ学校に通っていた4学年下の林信也さんも亡くなりました。10歳でした。


(高木敏行さん)
「おとなしい子だった。ここに爆弾が落ちて、ここの木に手や足や洋服がひっかかって。地獄とはこういうことかと子ども心に思った。『米英撃滅』『一億一心火の玉』で敵をやっつけなければと思った」


身近な人を失い、敵国を憎んだという高木さん。米軍機が不時着した日、現場に向かいました。

(高木敏行さん)「あそこに米軍機が落ちた」


すでにディクソン中尉は連行された後でしたが、海岸に残されていたアメリカ軍機に近づきました。操縦席で“あるもの”を見つけたといいます。