フェイクをファクトと同列に扱う罪深さ

ヘイト団体が振り回していた旭日旗

TBSドキュメンタリー映画祭のために今回制作した映画『リリアンの揺りかご』で取り上げたのは、現代日本にはびこる「不寛容」な出来事です。やまゆり園障害者殺傷事件▼ヘイトスピーチ▼歴史のねつ造▼不誠実な政治家▼沖縄へのヘイト▼記者への攻撃など、多くのエピソードが出てきます。私の目に映ったその醜悪な容貌を、そのまま記録しました。

私と考え方の違う人ももちろんいらっしゃるでしょう。その方が何かを主張するのを妨げようとは思いません。

しかし、事実に反した根拠のない“妄信”は、「考え方が違う」というレベルではありません。「南京事件はなかった」「強制連行はなかった」「関東大震災での朝鮮人虐殺はなかった」――こんなフェイクを妄信してしまっている人が増えていることは、学問としての歴史学と、ジャーナリズム、双方の「敗北」と言わなければなりません。

歴史学は、事実(ファクト)を掘り起こし、記録を積み重ねて、時代の実相により正確に迫っていく学問です。ジャーナリズムとはかなり共通する性質を持っています。だからこそ、ともに歴史修正主義からの標的となっています。

フェイクを信じる人からの攻撃をメディアが恐れ、ファクトとフェイクを並べて報じ、中立報道のお題目の陰に隠れる――。フェイクとファクトを同列に扱うのは、メディアとしての原則・中立報道を一見守っているかのように見えますが、事実を相対的なものに引き下げてしまいます。こと差別と反差別の中立報道は「メディアの職業倫理に反している」と私には思われるのです。