プロップス消費の本質

Liquid DeathやTHE DAYのような商品において、本質的に欲望されているのは“水”そのものではない。極端に言えば、中身は水でなくても成立する。重要なのは、「缶を持っている自分」が、その場の空気や文化に適応し、特定の役割を演じられることである。

だからこそ、これらの商品はグラスに移した瞬間、その価値の多くを失う。もし本当に価値の中心が“味”や“水質”にあるのであれば、容器を移し替えても本質は変わらないはずである。しかし実際には、アルミ缶のデザインやサイズ感、手に持った時の見え方そのものが消費対象になっている。つまり消費者が求めているのは内容物ではなく、「その商品を持つことで成立する自己像」なのである。

当然のことだが、ここには極めて非合理的な側面と脆弱性も存在する。本来、水分補給という機能だけを考えれば、より安価なペットボトル水で十分であり、味そのものに大きな差異があるわけでもない。それにもかかわらず、人々はあえて高価な缶入りウォーターを選び、その場にふさわしい自分を演出しようとする。

しかし、この非合理性こそが現代消費の特徴でもある。物質的充足がある程度達成された社会では、人々は単なる機能や効率だけでモノを選ばなくなる。むしろ、「どのような気分になれるか」「どのような存在としてそこにいられるか」といった象徴的・感情的価値が重要になる。つまりプロップス消費の本質とは、モノを使用することではなく、モノが持つ記号や文脈を借りながら、自分自身を特定の世界観の中へ配置する行為にある。そしてその価値は、極めて視覚的・状況依存的であるがゆえに、グラスへ移し替えた瞬間のように、文脈から切り離されることで容易に失われてしまうのである。

この視点から見ると、プロップス消費においては、商品の機能的価値が本質ではないからこそ、高い代替性が生まれる。前述した通り、消費者が求めているのは“水”ではなく、“ビールを飲んでいるように見えること”や“洗練されたライフスタイルに属している感覚”である以上、その役割を果たせる別の商品が現れれば、容易に置き換えられてしまう。重要なのは中身ではなく、「どのような文脈を演出できるか」だからである。

これは、かつてのタピオカブームとも近い構造を持つ。流行当時、多くの人々がタピオカドリンクを購入しながら、実際には飲み切らずに捨ててしまうことが社会問題化した。もし人々が本当に“味”や“食体験”を目的としていたのであれば、このような大量廃棄は起こりにくい。しかし実際には、タピオカは「タピオカを持って街を歩く自分」や「SNSに投稿する自分」を成立させるためのプロップスとして消費されていた側面が大きかった。

つまり、プロップス消費において演出が完了した瞬間、商品(欲求)は急速に価値を失う。タピオカを撮影した後に飲み残されるように、Liquid DeathやTHE DAYもまた、「その商品を持つことで成立する自己像」が消費の中心にある以上、機能的価値とは異なる極めて不安定な価値構造の上に成り立っているのである。

(※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 生活研究部 研究員 廣瀬 涼)