「没入感を生み出す機能」そのものの商材化
「没入」という言葉には、人が自発的に経験する主観的な感覚(夢中になる、のめり込むといった心理状態)を指す場合と、現代の市場やエンターテインメントの文脈で用いられる「没入感を意図的に生み出す仕組みや手段」を指す場合とが併存している。
すなわち、「没入」が感情そのものを表すのか、それとも意図的に設計された体験を指すのかという点で、本質的な差異が存在しているのである。この二重性ゆえに、近年「没入感」という言葉が多用される状況に違和感を抱く人も少なくない。
今やイマーシブや没入感という言葉は、人を引き付けるが実態のわかりづらいキャッチコピーのように使われている感がある。
言い換えれば、消費者が「その世界や空間に入り込めるはずだ」という漠然としたイメージを喚起する言葉として、つまり、実際の中身よりも「没入できるに違いない」という期待を生み出す呼び水のような役割を果たしているのである。
一般的な単語としての「没入」は体験者の内側から自然に生まれる主観的な感情や状態を指していたのに対し、現代の「没入」は企業やクリエイターが技術や演出を駆使して人工的に設計した体験そのものを意味している。
したがって、「このサービスでは特定の技術を用いて意図的にあなたを没入状態に導きます」と提示すること自体がサービスの価値となっているのである。
この構造においては、もはや「集中」や「熱中」「没頭」といった既存の言葉では代替できず、消費者が曖昧に共有している「没入感=よくわからないけれど特別な体験ができる」という期待に働きかける、という明確な意図をもって「イマーシブ」という言葉が使われている。
すなわち、イマーシブという語は「没入感を生み出す仕組みを体験できる機会」を意味する概念として定着し、同時にマーケティング用語として強力に機能しているのである。
それ故に、体験の中身やコンテンツの質そのもの以上に、「イマーシブである」というラベルや形式に注目が集まりやすい傾向がある。
少なくともイマーシブ市場においては「何かを観て結果として没入する」のではなく、「没入したいからイマーシブと銘打たれた体験を選ぶ」という逆転現象が生じているのである。
ここで消費者が消費しているのはコンテンツそのものではなく、没入を保証する仕組み自体であり、没入感という内在的な感情を意図的に刺激されるはずという「期待」に価値を認めている点に特徴がある。
結果として「没入感を生み出す機能」そのものが商材化され、「イマーシブであること」自体が消費対象として成立するのである。