現代消費文化における「イマーシブ」とは
現代のイマーシブコンテンツは、演出や技術によって意図的に没入状態へと導く構造を持っているが、「没入」は人工的に設計された商品へと変質しており、「没入状態にさせる」という機能の商材化は、自己の感情や体験、さらには人格の一部までもが商業主義に組み込まれることを意味している。
つまり、イマーシブという概念は単なる体験価値の提示にとどまらず、人間の内面に本来属する感情が商品として扱われるいびつさを内包しており、これこそが理解の難しさを生んでいると筆者は考える。
イマーシブによって設計された没入感は、体験者の感覚レベルでは自然な没入と似たように経験されるが、その成立過程はまったく異なる。
自然な没入が主体の内発的な心理過程によるのに対し、人工的な没入感は、外部的な技術や演出によって誘導された体験である。
この差異こそが、現代の「没入感」という語に対して違和感や戸惑いを抱かせる根本的理由である。
また、自然な没入は人それぞれに生まれる多様で個別的な体験だが、イマーシブ市場における没入感を誘発することを目的に設計された没入感においては、「同じ仕組みによって、多くの人が似たような没入を経験する」 という特徴を持っている。
フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールの見解を踏まえれば、イマーシブ市場において得られる没入感は単なる「現実の模倣」ではない。
イマーシブという仕組みが繰り返し模倣・再生産されることで、消費者は「本物なき本物」としてのイマーシブ体験を受け取り、そこで得られる没入感を商品として購入するようになる。
すなわち、消費者は従来の自然な没入経験とは異なる人工的な没入感を「本物」として消費しているのである。
ここで特筆すべきは、消費社会において「お金を払えば没入感を得られる」という仕組み自体がリアルな現実であるという点である。
その意味において、この体験は確かに本物といえば本物なのだが、それはオリジナルを持たないオリジナル、すなわちシミュラークルとしての没入感である。
自然な没入とは異なる人工的な没入感が画一的に流通し、やがて人々にとっては「人工的に没入感が誘発されること」自体が当たり前の消費対象として受容されていく。
言い換えれば、イマーシブ市場においては「没入体験への期待」そのものが商材となり、シミュラークルとして消費されているのである。
つまり、もともと没入は「内的に自然に生まれる感情」だった→しかし、イマーシブ市場においてはその状態を外部装置で「再現・模倣」される→その模倣(人工的に没入感を生み出すということ)が普及するにつれ、人々にとって「没入」とは「仕組まれたイマーシブ体験」、すなわち金銭によって購入可能な商品として理解されるようになっているのである(もちろん、世の中の全てのエンタメが人工的に感情の起伏を生み出すモノであるのだが…)。