東京、富山 2度の空襲を体験

1945年3月、当時住んでいた東京で大空襲にあった浅岡さん。
下町を中心に焼け野原となり、約10万人が犠牲になりました。
浅岡さんはその後、家族で祖父の故郷である富山市に疎開します。
しかし、その5か月後の8月2日未明、174機の米軍爆撃機・B-29が富山市の中心部に50万発以上の焼い弾を投下しました。
声楽家 浅岡節夫さん
「空襲警報がなった直後にもう落ちてきたからね。玄関から逃げようと思ったら玄関が燃えている。庭から見たら今度は後ろの家が燃えている。もうバーッと燃えてる。布団を濡らして片手に持ってそこを通り抜けた」
当時14歳だった浅岡さんは家族とともに神通川に逃げました。

声楽家 浅岡節夫さん
「飛行機(B-29)を見てました。向こうから来る。ずっと逃げる方向に来た。その時はもうやられたと思った。上から落ちる雨のような(焼い弾)何万発か知らないけどね。それを被っていたんだよ。それはもう。それは悲惨だった」
富山の市街地は焼き尽くされ、その破壊率は99.5%と空襲を受けた都市では最悪の被害となりました。