親の顔を知らない自分、子を亡くし生き延び苦しんだ祖母
「(学生時代)1分間の黙祷がある時に、非常に長く感じて、なんとか親の顔を思い出そうと思っても出てこない。その時初めて、『親の顔を分からない』というのは大変なことなんだと思いました… あの時はとても苦しかった。1分間が、とても長く感じました」
戦火が激しくなると、根川さんら家族は、本島中部の旧具志川村仲嶺から、北部の国頭村安田へと避難。カエルやソテツの実、百合の球根などを食べて飢えをしのぎました。
やがて根川さんら家族は、米軍の捕虜になり、宜野座の収容所などで過ごしました。
ようやく迎えた終戦― しかし根川さんは、生き延びた者が苦しむ姿を目の当たりにします。
「祖母は2人、息子を亡くしたから、『年寄りが長生きして』と言って一切行かなかった、晴れがましいところには。生き残った者は生き残った者で、それなりに心が傷ついてるんだな、と」











