「ある朝、足がすごく痛い。何かを踏んづけている。スルーと足が滑ったので、足元を見ると大勢の人々が死んでいて、私はその死体の上を歩いていた」

「靴も破れて痛いしさ、道は凸凹さ。今みたいな道じゃないですよ。だから足なんか変なの。滑るからさ、なんだろうと思ったんだけど、たくさんの死体の上から歩いていたわけさ。だからごめんなさいって言ってるさ。あの真っ黒い死体だけは今でも忘れられない」

必死の思いで金武へたどり着いた宮里さん。祖母らと奇跡的に再会を果たしました。

――なぜRBCに原稿を送ろうと思いましたか?

「何か残さないとかわいそうさ、私たち。(なぜ残そうと思う?)自分、ばあちゃんがここにいたよーっていうことさ。やっぱり必要さ。そしたら『あー、強く生きられるんだね』と思うさ」

――戦争終わってから今年で80年。今思うことは

「なんで戦争するかねと思う。今戦争したらね、戦争絶対したらいけないよ。でもするなって言ってするんだからさ。今の沖縄の人たちは優しいさ。若い人たちも関係ないふりをするさ。でも私は言うわけさ。(自分の身に起こるかもしれないよ)知らないよ、って」

戦後80年経ても、拭いきれない当時の記憶。病気で身体の自由が奪われていくなか必死で紡いだ言葉が、戦火を生きた少女の原稿に記されていました。

【記者MEMO】
宮里さんはこれまで家族に戦争体験を話したことはなく、胸の奥にしまっていた記憶を今回初めて伝えてくれました。