戦争を体験した人やその意思を継ぐ人、それぞれの思いをシリーズでつなぐ「#あなたの623」。18歳で徴兵された渡口彦信さん、99歳の沖縄戦体験です。農学校で学んでいた渡口さんは、沖縄戦前夜の1945年3月、高射砲部隊に配属され、最前線から生還しました。
渡口彦信さん、99歳。渡口さんは、アメリカ軍が沖縄に上陸する直前の1945年3月、18歳で徴兵されました。当時の嘉手納村にあった県立農林学校の3年生でした。

▼渡口彦信さん
「18歳で検査をして、即入隊ですから、私は3月1日に入隊させられたんです。だから、卒業間際ですよね」
地元の幼なじみとともに徴兵検査を受け、18歳で日本兵となった渡口さん。すぐに、那覇港やその周辺飛行場の防衛にあたる高射砲部隊「野戦高射砲第79大隊」に配属されました。
▼渡口彦信さん
「(高射砲の)下は留めてあるんだが、移動の時はボルトを外してタイヤを付けて、引っ張ることができるんです」
動かすためには4,5人の力が必要だった高射砲の操作。1人でも逃げることは許されませんでした。那覇市の平和通り近くに、渡口さんの部隊が1か月近く身を潜めた陣地壕が残されていました。
▼渡口彦信さん
「初年兵は、飯上げ。飯上げはご飯を運ぶんですね。それから弾薬を運ぶとか、死体を埋めるとか。那覇でもかなり埋めました」
那覇から糸満へと、南へ追い詰められた部隊は、当初いた155人の大半が戦死。30人ほどにまで減りました。弾薬も尽きた6月20日、ついに部隊は解散。
渡口さんは、部隊の生き残り2人と共に糸満市摩文仁の海岸に追い詰められます。岩陰に身を潜めていると、投降を呼びかける、うちなーぐちが聞こえてきました。
▼渡口彦信さん
「うちなーんちゅがね、わんねー、うちなーんちゅです。ちけーねーびらん、んじてぃめんそーれ。食べ物もある。北部では戦争は終わって、畑仕事もしていますとか、方言で言っていたよ」
アメリカ軍の捕虜となった渡口さん。共に徴兵検査を受けた地元の幼なじみの多くは、命を落としていました。
▼渡口彦信さん
「自分だけ、生きてすまないなという気持ちがあったんですよね。(幼なじみと)徴兵検査を一緒に受けて、別れるときには靖国の桜の下で会おうねって。そういう風に別れたのが、13人亡くなったのでね」
激しい地上戦で衰弱しきった渡口さんはその後、思いもよらぬ場所へ送られることとなります。
▼渡口彦信さん
「上陸用舟艇に乗っけられて、ずっと沖の貨物船に移されたわけ」
行き先も告げられぬまま、およそ3000人の捕虜が船に乗せられ、たどり着いた先はハワイ。その史実は戦後70年以上経つまでほとんど知られることはありませんでした。








