沖縄戦から80年が経ちました。沖縄の80歳以上は、人口の7%です。日本全体でも90%が戦後生まれになり、近い将来、戦後世代しかいない沖縄がやってきます。【戦後80年 #あなたの623】は、胸の奥にしまい込んできた辛い記憶。家族のなかで避けてきた戦争の話題。今しか話せない大切なこと。今だから話せる戦争のことを聞いていく、シリーズ企画です。

当時11歳の少年が見た戦場 大城 勇一さん(92) #あなたの623

宜野湾市に住む大城勇一さん、91歳。80年前の沖縄戦当時、11歳でした。

大城さんの脳裏に今も残るのは、当時の日本兵の姿です。

▼大城 勇一さん(91)
「戦争前、新潟出身の兵隊が入れ替わり立ち替わり住んでいた」

当時、大城さんが暮らしていた南風原村(現在の南風原町)では、日本軍が民家を宿舎として使用するなど、日本兵と住民は友好な関係を築いていたといいます。

しかし、沖縄戦が始まると日本兵の態度は一変しました。

▼大城 勇一さん(91)
「戦争が始まると日本兵が『お前らは壕から出ていけ、これは日本軍が使うから出て行け』と追い出された」

1945年4月1日、沖縄本島に米軍が上陸。両親や祖母、姉とともに南部へ逃げる途中で見たのは、米軍の攻撃だけではありませんでした。

▼大城 勇一さん(91)
「日本兵は住民を守らない、絶対。かえって殺すような役目をした。壕から出て行った人たちは、戦場でさまよって、生きるか死ぬかだった」

食料が尽き、家族は衰弱していきました。行き場のない絶望の中、捕虜になることを決意します。しかし、そこへ日本兵が現れ、こう言い放ちます。

▼大城 勇一さん(91)
「日本兵に『お前ら沖縄人は皆、スパイだ。捕虜になるのはみなスパイだ。捕虜になるなら手投げ弾(手りゅう弾)を投げて殺してやるから覚えておれ』と言われた」

それでも家族は意志を変えず、日本兵の姿が消えた隙に米軍の捕虜となりました。