新潟市で開かれたシベリア抑留に関する展示会です。こちらは冷たくなった友の死を嘆く様子を表しています。

鳥谷部さんのようにシベリアに連れていかれて強制労働をさせられた日本人は60万人いるとされています。新潟県内出身者では1317人が帰国できず、シベリアの地で死亡しました。

過酷な生活のなかでも収容所の人たちは希望を捨てずに生きてきました。その中で最も楽しみにしていたのは食事です。

【鳥谷部仁さん】
「あの黒パン。黒パンを支給されて、あれもまた楽しみになったからですね。あれしかないものですから。だから黒パンを我々分けて、どれが大きいかなってみんな言っていました。なんか酸っぱいような味がしました。でもお腹がすいているから、よく食べました」


少ない食事に過酷な労働。そして極寒のシベリア。
いつ帰れるのか…いつまで続くのか…生きて帰れるのだろうか…
鳥谷部さんは4年もの間シベリアの地で生きてきました。


ダモイ(帰国)への期待も希望も急速に消えていった。逆に時の経過とともに極寒での越冬への言い知れぬ不安が醸成されていった。そしてその不安が何ともいい得ぬ恐怖のようなものになっていった。さらに寒気とともに(『回想シベリア』より抜粋)


そして、その時が訪れます。
1949年、終戦から4年後。鳥谷部さんは日本に帰れるようになりました。