私がスオン被告と重ねた面会は17回に渡ります。その中で、彼女は、少しずつ、日本に来るまでのこと、来てからのことを話してくれるようになりました。


彼女は、ベトナムの首都ハノイから60kmほど北東にあるバクザン省出身。実家の家族は、祖母、父、母、兄、そして実は、幼い娘がいました。父と兄は米を作って暮らしていて、母親は彼女が5歳の頃から12年間台湾で働いていたようです。

そのためか、彼女にも、外国で働くことに抵抗感はなく、台湾、韓国、そして日本で働きたいと思っていました。日本に来る前に、台湾で働いていたこともあり、大きな工場で携帯電話の差込口を作っていたそうです。朝7時から午後5時まで働いて、月に4万5千円を得たものの、お金を貯められなかったといいます。台湾から帰国後、紹介された男性と結婚して妊娠。ところが、男性の心変わりですぐに離婚することになり、彼女はシングルマザーとして女の子を出産します。

子どもが生まれたこと、元夫との月5千円ほどの養育費の約束が守られなかったこともあり、経済的に困窮してきた彼女に、日本行きを勧めたのは母親だったそうです。近所には日本に行っている人が多く、彼女も希望しましたが、審査に通らず、7度目の申請で希望分野を「農業」にしてようやく願いが叶ったといいます。

渡航費用の食費や生活費、日本語研修費を含め、約150万円は、両親が工面してくれたそうです。ベトナム人技能実習生の多くは借金をして来日するといいますが、スオン被告の弁護人によると「両親がどこかから借りたらしい」といいます。つまり彼女も、借金まみれのスタートでした。

来日したのは、2019年、25歳の時。来日前に故郷で半年間、広島でも1か月間、集団生活をして日本語を学んだといいますが、彼女の日本語は、「カタコト」までもいかないレベルでした。

2019年12月から、東広島市内の農園で働き始めます。「職場の人は優しかった」と彼女はいいます。来てすぐのころ、社長が食事に連れていってくれたんだそうで、その時に食べたエビの天ぷらは、彼女にとって、日本で一番好きな食べ物になりました。

しかし、「仕事内容は好きにはなれず、帰国しても農業をしようとは考えられなかった、それでも、家族のことを思って、我慢して働くことを決めていた」といいます。

「勤務時間は、夏は7時から、冬は8時からの9時間(休憩時間含め)。普段やっていたのは、野菜の箱詰め作業。給料は(寮の費用などをひかれたあと残るのは)10万円ほどで、いいときは11万円になった。そこから2か月ごとに18万円を仕送りしていた」といいます。生活費を節約するために自炊で、米、卵、野菜、魚、豚肉を使って、自分だけが食べられるものを作っては食べていたそうです。「牛肉は高くて買えなかった。でも、フルーツがたくさんあっておいしいのは日本のいいところだと思う」と話しました。

寮として暮らしていた古い民家から農園までの通勤時間は、自転車で5分ほど。普段の買い物にも、その自転車を使いました。ベトナムにいた時は、バイクに乗って、景色のキレイなところに遠出するのが好きだったそうですが、日本では休みの日には、携帯でネットのドラマをずっと見ることが多かったそうです。

一緒に働いていたベトナム人とは「仲良しだった」といいますが、相談できる友達がいる様子はうかがえませんでした。「心配をかけたくない」と父や母に困ったことや悩みを相談することはなかったそうです。それでも、家族とは、毎日のようにフェイスブックで会話していたらしく、その話をする時、彼女は、とてもやさしい笑顔になりました。

彼女の人となりが段々描けてきたころ、私は質問を事件に寄せていきました。