紙人形に託した平和への願い
一方、こうした世界への発信を影で支えた被爆者の存在も伝えています。

海外に赴く仲間に託し、現地で配られた可憐な和紙の「紙人形」。

作ったのは、7歳の時に爆心地から500メートルの城山一丁目で被爆した永瀬カズ子さんです。両親と兄弟の多くを失い、幼くして子守奉公として働きました。

生前の永瀬さんは、インタビューの中で、働きづくめだった日々のことを語っていました。
「家の拭き掃除から、洗濯、ごはん炊き、子どものお守り……学校に行く暇はないんです。行かんやったばっかりに字を書くことが分からない」

原爆症と奉公先での差別に苦しみ、働きづくめで歩けなくなった永瀬さんは、37歳の若さで恵の丘長崎原爆ホームに入りました。
生活の不安から解消された安心感よりも、年齢が全く違う入所者の中で馴染むことができない辛さが勝りました。

長年、被爆者相談員をしてきた横山照子 副会長は、1977年の生活史調査で、すでに原爆ホームに入っていた永瀬さんに聞き取りを行いました。
その際、健康について尋ねたのに対し、永瀬さんが「死にたい」と答えたことを忘れることができません。


「『死にたい』。もう本当に私はこれを聞いたときは、『(原爆って)何なの?』と思いました」と横山副会長は振り返ります。

それでも、世界に出て活動する仲間に刺激を受けた永瀬さんは、平和を願う思いを、得意だった紙人形に込め始めます。

自分のような経験を、二度と他の誰かに味わわせたくないー
自分なりの平和の発信に、やがて生きる意味を見出していきました。

「(被爆者の)仲間が使命を持って(海外に)行くわけでしょう? そういう人たちに、やっぱり自分も一緒に行ってる気持ちで作っていたと思います」と横山 副会長は語ります。

















