「日本は私の国です」
フィリピンで暮らす95歳の田中愛子さんは日本語を忘れたことはない。
日本人移民の父とフィリピン人の母の間に生まれたが、太平洋戦争末期の壮絶な逃避行の末、父と4歳の弟を失い、戦後はフィリピンに取り残された。その後は貧困や迫害に苦しみ、学校にも通えなくなり、生きるために16歳で結婚した。日本人と認められたのは終戦から半世紀が経ってからだった。
フィリピンには戦後81年が過ぎた今も、無国籍状態に置かれたままの2世たちがいる。
(JNNバンコク支局 村橋佑一郎)
【この記事を前編から読む】壮絶な逃避行の末に…「母は弟を殺しました」 95歳のフィリピン残留2世が語る戦争の悲惨さと日本人の父親の最期
16歳で結婚…戦後も続いた苦難「外に出れば石を…」
日米の激戦地となったフィリピンでは、日本人約51万8000人(うち兵士約49万8600人)、フィリピン人111万人以上が犠牲になったとされている。
終戦後、多くの日本人移民が日本へ送還されたが、フィリピン人の母をもつ愛子さんは現地に取り残された。愛子さんのようないわゆる「残留日本人」は、戦争が終わっても厳しい生活を強いられた。
日本軍に占領されたフィリピンでは反日感情が高まり、日本人の家族は憎悪の対象となって迫害を受けた。
田中愛子さん(95)
「日本人の暮らしからフィリピン人の生活に変わることは、子どもとしては苦しかった。学校にまた通うようになったけど、現地の言葉も遊び方も分からない。日本人の子だからという理由で教室にも入れてくれない。外に出れば石を投げつけられることもありました」
学校に通えなくなった愛子さんは、地域の有力者だった山岳民族の村長のもとに身を寄せ、16歳で村長の息子と結婚した。

田中愛子さん(95)
「親同士が決めた愛を知らない結婚でした。つらいですよ。つらくて涙をたくさん流した。でもそうしないと母やきょうだいの生活の面倒を見てもらえない。困った生活でしたから助けてもらうために犠牲になりました」
家族を支えるため、愛子さんは必死にこらえ、9人の子どもを育てた。

















