3度の捜索も見つからず… たった一人で突破口を開いたのは

捜索時の記録が残っていました。帰国後の小野田さんに厚生省の職員が聞き取りをしたものです。実は、この捜索には裏があると疑っていたのです。
ルバング島から復員した元陸軍少尉 小野田寛郎に関する記録
「私の捜索に行くという名目で諜報機関も入れる」
ーー小野田さんはなぜ出てこなかった?

陸軍中野学校 二俣分校出身 井登慧さん
「中野学校の教育。“戦争が終わって平和になったから出てきなさい”おびき出して出たら殺す。中野学校では(敵に対して)宣伝工作をしろという教育」
そうとは知らず、当時86歳だった父の種次郎さんも島に入り、必死に呼びかけます。

父・種次郎さん
「寛郎、聞こえるか」
「出てくるか、もう出ないという意思の表示を今直ちに決断して日本の捜査団の諸君に申し出なさい」

姉・千恵さん
「寛ちゃん、姉さんのところに出てきてください」
「和歌山へ帰って、いっぺんお母さんに叱られてみたいと思いませんか」
ルバング島から復員した元陸軍少尉 小野田寛郎に関する記録
「寛ちゃん。寛ちゃんと、女の声がした。姉の声だったのだろう」
「3日ほど聞いていたが、自分としては理由があって出ないんだし、ノスタルジアになっては困るので、蛇山に移動した」
「肉親が来ても戦友が来ても同級生が来ても 全く出る気持はなかった」
捜索は3度にわたりました。延べ107人、約9000万円もかけたのに、あえなく撤退。

ところが、世界を放浪していた鈴木紀夫さん(24)という青年が、たったひとりで突破口を開いたのです。

















