山本は4月の金栗記念5000mで15分12秒97と、大学4年時に出した自己記録を3年ぶりに更新。5月のゴールデングランプリ(GGP)3000mでも8分50秒64の自己新を出したが、どちらもペースメーカーの田中に先導してもらっていた。金栗記念の結果でアジア選手権代表入りを決め、アジア選手権でも3位と健闘。日本人トップの3位に入ったGGPとアジア選手権で、世界陸上代表入りに関わる世界ランキングのポイントを積み重ねた。
しかし7月の日本選手権で7位と敗れ、世界陸上代表は「絶望的」(山本)という状況になってしまった。9月に入って世界ランキングでの代表入りが決まったが、その間の2か月は世界陸上に向かうメンタルになれなかったという。その状況で大会前日発表のスタートリストで、田中と同じ組になった。
「今回のような形で走りたいと、すぐに思い浮かびました。野口(英盛)監督の許可を取ってから田中さんに話したのですが、すごく喜んでいただけて。自分は心も体も良い状態ではなく、決まったレースプランがなかったのですが、田中さんのおかげで自分の役割を見つけて、目的を持って走ることができました」
野口監督は「走り切って自己新を出すように」と指示を出したが、山本もそのつもりでいた。
「スローペースになったら予選は通過できませんし、自己新も出せません。私は自己ベストを出したかったので、自分のためでもあったんです。これまでは代表だから、という意識が強すぎたのですが、今回は田中さんと自分のために、と思ったら勇気をもって走ることができました」
残念ながら自己記録を出すことはできなかったが、山本は笑顔で世界陸上を終えることができた。国立競技場を埋めた大観衆からも、最後まで惜しみない声援が送られた。

















