規格外のパワーに金属バット禁止も

地元の中学校では軟式野球部に所属するも部員はわずか8人。隣中学校との合同チームで決して恵まれた環境ではなかった。高校は地元の学校で進路希望を出していた村上だが、進路変更の期限直前で本当の意思を口にした。「宇和島東高校に行きたい。宇和島東高校で甲子園を目指したい」。『必勝』ハチマキと共に猛勉強の末、念願の合格を果たした。

宇和島東ではエースで4番という目標があったが野手に転向。ウエイトトレーニングを取り入れたこともあり、長打が増えたという。練習ではグラウンドに設置された98mのネットを越えてしまうほどの規格外のパワーに、金属バットの使用が禁止されたこともあった。その長打力を武器に3年夏は「4番センター」で全試合にスタメン出場、愛媛大会を制し甲子園の切符を掴んだ。村上家は自費でバスを用意し、地元の人たちを招待。大応援団で甲子園まで駆けつけ、裕一郎の高校最後の夏を見届けた。

大学は声がかかった九州共立大に進み1年からベンチ入り。福岡六大学野球リーグでは3年春、「5番ライト」に定着すると秋には打率.441、リーグトップの4本塁打でベスト9を初受賞、侍ジャパン大学日本代表の候補入りを果たした。その後、社会人野球の名門・ENEOSに入社。1年目からライトでレギュラーの座を獲得すると都市対抗1回戦の東海理化戦では東京ドームレフト上段に、打球速度174㎞の驚愕の2ラン本塁打を放ち鮮烈な印象を残した。同年9月には侍ジャパンU-23代表に選出され、WBSC U-23ワールドカップで2大会連続優勝に貢献。強肩・俊足も兼備し、アマチュア野球界有数の外野手に成長した。