◆石垣島事件6人減刑 残る7人は

<冬至堅太郎の日記 1950年3月28日>
◎石垣島事件6人減刑か
看守が私に「今日ラヂオでマッカーサーが死刑囚の中から六人減刑決定した旨放送があった」と云う。よくききかえすと石垣島事件の人たちと云うことがわかった。同事件は三人の米飛行士処刑事件に対し、最初四十一名の死刑が判決され、再審で二十八名減刑、現在十三名残っているが、その中六人減刑となれば七人また残ることになる。マッカーサーが減刑したとの放送であれば、残りの七名の確認も同時に行われたものと考えねばならない。すると近日中に六人は出てゆき、七人は執行されるであろう。皆何も知らずに今日も方々で麻雀の音がする。何というはかない営みであろう。目前に死が迫っているとも知らず意味もない勝負に懸命になっている。然しこれが人生の姿なのだ。人はすべて死刑囚である。
十一月、青木氏の処刑以来おだやかであった死刑囚棟に、再び無常の嵐が吹き出す気配が感じられる。私は何時でも永久の旅へ出発出来る様に不用なものは捨て、手製の箱二つに書籍と書きものとを分けておさめた
◆死刑が確定 そのとき松雄は

3月28日に減刑された人が発表になった時の松雄の様子を書いている人がいる。ドラマから映画にもなった「私は貝になりたい」の原作者、加藤哲太郎だ。慶応義塾大学卒で語学力を買われて戦中、捕虜収容所の所長を務めていた加藤は、戦後、捕虜の殺害や虐待でBC級戦犯に問われ、スガモプリズンに死刑囚として在所していた。加藤が、当時は本名を明かさず「狂える戦犯死刑囚」というタイトルでフィクションとして書いた遺書をもとに、橋本忍が脚本を書いて、ドラマ「私は貝になりたい」が制作された。
その加藤が1953年に巣鴨遺書編纂会からガリ版印刷で出された「散りゆきし戦犯」に書いたのが、「水洗便所の水音」という、藤中松雄を追悼する文だ。絞首刑の宣告を受けた加藤が死刑囚の棟に連れていかれ、最初に入れられた部屋にいたのが松雄だった。スガモプリズンの部屋には当時はまだ珍しかった水洗便所があり、松雄がその水音を聞きながら故郷の川の音に重ねて妻子を思い出すというエピソードは、松雄の手紙の文面から受ける、穏やかで優しい松雄のイメージにも合致する。