東京都豊島区にあったスガモプリズン。米軍がひらいた横浜軍事法廷で裁かれたBC級戦犯の最後の処刑が行われたのは、1950年4月7日だった。その日に処刑されたのは石垣島事件の7人。そのうちの一人、福岡県出身の藤中松雄は28歳だった。終戦の年の4月、上官の命令を受けて米軍機搭乗員の捕虜を銃剣で突いた松雄は当時、下士官。階級は海軍一等兵曹だった。松雄のふるさと、福岡県嘉麻市に残されていた獄中からの手紙の中で、日付が一番新しいのは死刑執行の約2か月前だった。そして、執行の日が近づいてくるー。

◆処刑は3か月無く 死刑囚たちは期待したが・・・

藤中松雄の手紙が収蔵されている嘉麻市確井平和祈念館

横浜軍事法廷で裁かれて、死刑が執行されたのは全部で51人。その最後が石垣島事件の7人で、4月7日に日付が変わってまもなく、二回に分けて絞首刑が執行された。その前に死刑が執行されたのは、11月の半ばだったので、恵泉女学園大学の内海愛子名誉教授によると、スガモプリズン内ではもう執行はないのではという雰囲気があったという。

藤中松雄が兄へ送った手紙の日付は、1950年2月28日。3か月以上、死刑は行われていなかった。現存する、松雄が亡くなる前に書いた最後の手紙になるが、「字数制限了承」という文字が入っていて、半分が空欄だ。松雄には二人の息子がいて、長男の孝一さんはこの時8才、「孝坊」と書かれている次男の孝幸さんは、まだ3歳になったばかりだった。(松雄は手紙では「松夫」と表記している)