「屈辱的」拷問は性的暴力にまで 適用範囲拡大も 

さらに特高警察による拷問は、性的暴力にまで及んでいた。

京都市に住む原田完さん(75)。母親の山田寿子さんは鳥取から上京後、開業医の手伝いとして働いた。そこで貧しい患者が、医療を受けられない現実を目の当たりにしたことをきっかけに共産党に入党。

1930年、横浜で大規模なストライキが行われる前日に拠点が一斉捜索され、寿子さんは特高警察に検挙された。

寿子さんが戦後に書き残した手記には、拷問の様子が生々しく綴られている。

山田寿子さんの手記
「検挙がいかに非人間的虐待であったか。いわゆる畜生以下の扱いであった事について報告します」
「冷酷で、女にとって屈辱的な拷問を私は戸部署で受けました。大の男5~6人で、私の衣服を全部ぬがせ全裸にして、後ろ手錠で倒し拷問を始めたのです」
「獣のような彼らは私の陰部をタバコの火で焼いたのです」

さらにこう訴えた。

山田寿子さんの手記
「女を人間と考えなかった時代に、世の中の解放に目覚めた女性に対して、当時の帝国主義的反動権力は活動家の一匹や二匹の命など問題ではなかった上に、女性蔑視は今日になっても、決して忘れることのできない現実であります」

原田完さん(75)
「治安維持法は物的証拠じゃなくて内心の問題ですから、自白を取るためには何をやってもいいのだと。共産党員の1人や2人殺しても構わないんだという、傲慢なことが平然と行われる、とんでもない話」

国体維持のために作られた治安維持法は、制定から3年後の1928年、最高刑が死刑となり、反戦や反軍運動の取り締まりも強化された。

さらに太平洋戦争が始まる1941年には、国の方針に従わないという理由だけで取り締まれるよう適用範囲が広がった。