225日の拘留…妊娠中も容赦ない拷問 弾圧された女性
特高警察から、激しい拷問を受けたという女性の家族に会うことができた。

小松伸哉さん(82)の母・ときさん。1923年、高知の女学校を卒業後、上京したときさんは、後の夫となる益喜さんと知り合い、社会運動に目覚める。
電気メーカーで労働組合を立ち上げ、奔走する中、ある企業のストライキの応援に出かけた際、特高警察に検挙され、激しい拷問を受けた。

小松伸哉さん(82)
「誰の指導で組合をやったのか、一番追及されている。まず殴られて、親指の間に木綿針を刺されて」
その時の様子を手記に綴っている。

小松ときさんの手記
「指導者を追及されて、なぐられたり、頭髪を引きずられたり」
当初、治安維持法による取り締まりは天皇を中心とする国家体制を揺るがす者が対象だったが、1931年に起きた満州事変の頃から次第に戦争や軍に反対する人たちを中心に取り締まるようになっていった。
20日間勾留されたときさんは、釈放後、共産党に入党。地下印刷局で反戦ビラを作る活動などにあたった。
その2年後、腹膜炎を患い、益喜さんとともに高知に帰郷。体調が回復すると、地元の仲間たちと合流し、高知の共産党組織を結成した。
満州事変の翌年の1932年、党員の仲間が高知市内の陸軍兵舎に潜り込み、反戦ビラを撒いた。このことが特高警察の怒りに触れ、党員ら50人以上が一斉に検挙された。当時この事件は地元紙でも大きく報じられた。

この時逮捕されたのが、高知で戦争に反対した若者の一人、詩人の槇村浩だ。
植民地支配や侵略戦争に反対した詩を数多く発表していた槇村は、特高警察から激しい拷問を受け、出所後、精神に支障をきたし、26歳で亡くなった。
槇村の生涯を描いた映画「人間の骨」。

高知を舞台に撮影されたこの映画は、党員が兵舎に潜り込み、反戦ビラを貼ったり、兵士に配ったりする様子や、特高警察が槇村たちを逮捕し、拷問する様子などがリアルに描かれている。
この時、検挙されたメンバーの一人が、ときさんだった。
小松伸哉さん(82)
「戦争に反対する立場を持たないと、幸せは本当に掴めないと思い立って、多くの人たちが幸せに繋がるのであれば、そういう生き方をしたいと思ったという。特に平和については、本当に平和を求めていた」

この事件でときさんは225日、夫の益喜さんは約400日勾留された。
勾留中、ときさんが留置場で書いた短歌が今も大切に残されていた。
取り調べに行く途中、落ちていた赤鉛筆を拾い、看守の目を盗んで書いたという短歌。その数は200首以上に及ぶ。
この時、ときさんは留置場の中で、益喜さんの子どもを身籠っていることを知る。それでも特高警察は容赦なく拷問を続けたという。

小松ときさんが書いた短歌
「血に染みし、畳みつむる吾が胸に、反抗の焔、燃えたちにけり」
「髪ひかれ頬なぐられても、吾が口は、固くもだして、うす笑いおり」

小松伸哉さん(82)
「暴力を振るう者に対する怒りもあるし、『自分は絶対に言わないぞ』という決意もあるし。警察の取り調べは無法状態。どんな暴力を振るってもいいし、小林多喜二のように酷いことになっても、表向きは拷問で死んだ人はゼロだと。言論の自由が奪われた時には、どこまでも人権が蔑ろにされていく」