またも歪められた報告書…「放射線の影響はない」

原爆開発に携わったノーラン医師。放射線の危険性を訴えていた彼は、原爆投下をどう見ていたのか…
ノーラン医師が、調査団の一員として広島に派遣されたのは、終戦の1か月後でした。

調査団のひとりは、「地面に何千もの体が転がっていた。人々はどうすることもできずに苦しんでいた。何千もの腫れた黒焦げの顔があり、潰瘍のできた背中があった」と当時を振り返っています。
その後、調査団は長崎にも入ります。ノーラン医師たちは、被爆後早々に多くの患者を受け入れた海軍病院に向かいました。
辿り着いた病院の中は地獄でした。

患者はけがや火傷だけではありませんでした。
髪が抜け落ちたり、歯茎から出血したり…放射線が原因とみられる症状をノーラン医師も無数に目にしたはずです。

ジェームズ・ノーラン・ジュニアさん
「祖父と一緒にいたスタッフォード・ウォーレン医師は、こう証言しています。『病院に行くと、けがをした被爆者たちが床に横たわっていた。翌日また病院を訪ねると、彼らの多くが亡くなっていた』と。彼らは、人々が死んでいくのを目撃したのです。爆風や火災だけでなく、放射線被ばくの影響を見ていたのです」

被爆の現実をつぶさに目にしたノーラン医師たちは、入院患者33%に放射線の影響が認められ、その半数が死亡したと報告書をまとめます。
ところが、報告書を受け取った陸軍・グローブス少将が連邦議会で証言した内容とは…

『爆発の瞬間を除き、放射線の影響はありません。一瞬の被害だけでした。負傷者の数は比較的少なかったです』
トリニティ実験の時、訴えを無視した少将は、ここでも報告書を大きくゆがめたのです。軍にとって“原爆は非人道的”というレッテルは不都合なものでした。
軍に“忖度”した医師 ただ一度だけ語った“あの時のこと”
ノーラン医師の孫・ジェームズ・ノーラン・ジュニア教授は、祖父たちにも軍への忖度があったのだろうと言います。
綾瀬はるか
「ノーラン医師が提出した報告書は正確だった?」

ジェームズ・ノーラン・ジュニアさん
「ウォーレン医師と祖父が、グローブス少将の議会証言のために提出した報告書は、正確だったとは思います。でも私は実際には、彼らが現地で見たものを過小評価していたと思っています。グローブス少将が好む形になるように、いわば調整していた、と」

原爆開発は軍の指揮下にあり、医師の立場は弱く、結果、軍に加担してしまったのだろうと教授は推し量ります。
アメリカの核開発は続きましたが、ノーラン医師はほどなくしてロスアラモスを去ります。命を守る医師として尽力し、67歳で亡くなりました。
ノーラン医師の甥、ビル・レイノルズさん。ビルさんは、晩年のノーラン医師との交流の中で、一度だけ“あの時のこと”を聞いていました。

ビル・レイノルズさん
「私が覚えている限り、彼は『ただただ、想像を絶する体験だった』という、一言だけを口にしました。かなり言いにくそうにしていました。彼は恐らく本当に話したくなかったんでしょう」