「日系人は馬小屋に…」戦争が引き裂いた“絆”

ロサンゼルス“リトルトーキョー”。アメリカ最大の日本人街です。100年以上前から多くの日系人が様々な店を営み、賑わいました。
リトルトーキョーの近くに“Jフラット”と呼ばれた地区がありました。Jフラットは、リトルトーキョーで働く日系人が多く住んだ場所でした。
私は、Jフラットで生まれ育ったという女性から話を聞くことができました。


98歳になるバーバラさん。以前、両隣に日系人が住んでいたそうです。
綾瀬はるか
「日系人の方との交流の思い出は?」

バーバラさん
「みんなで庭で遊びました。当時は、まるで家族のような存在でした」
この辺りに住んだのは、日系人のほか黒人や移民たちでした。差別や偏見に満ちた社会の中で自然と絆が生まれたと言います。

しかし、戦争が始まると、日系人だけが別でした。日系人は皆、敵とみなされ「敵性外国人法」という法律によって強制収容所に送られることになったのです。

綾瀬はるか
「近所の日系人は収容所に送られたのですか?」
バーバラさん
「みんな、強制収容所に送られました。まずサンタアニタ競馬場に送られて…馬小屋に住まわされました。強い衝撃を受けました」
隣人たちが連れていかれる日の朝、バーバラさんのお母さんは、みんなに朝食を用意したそうです。
バーバラさんは、その時のことについて…

バーバラさん
「私は悲しくて泣いてしまいました。でも日系人たちは毅然としていました。つらかったはずなのに。雨は降っていませんでしたが、柔らかな霧が立ち込めていました。まるで、天が涙を流しているかのように。みんないなくなってしまうのですから」
「友人であり隣人」に落とされた原爆 市民たちは「みんなお祝いしていた」

そして、8月6日。初めて原爆が生きている人間の上に落とされました。

3日後には、長崎にも…
2発の原爆は、この年だけで、21万人以上の命を奪いました。
綾瀬はるか
「そのときの町の様子は?」

バーバラさん
「原爆が落とされたと知って、みんな、お祝いをしていました。でも被害の大きさを思うと、私は、複雑でした」

アメリカ政府は「原爆が戦争を終わらせ、アメリカ人の命を救った」と謳い、8割以上のアメリカ人が原爆投下を支持しました。
綾瀬はるか
「子どものころから親交のあった日系人たちが突然、戦争をきっかけに敵になってしまったことについて、バーバラさんは、どんな気持ちになりましたか?」

バーバラさん
「心が痛みました。だって彼らは、友人であり、隣人でしたから。彼らが苦しんでいるのをみると、私もつらくなります。とても感情的になります。何十年たっても…」

















