あの時、言えなかった“ことば”
飯田國彦さん「ここが家になるね」

これは、飯田さんの叔母が書いた家の見取り図です。

飯田さんが縁側でコイを眺めていると偶然、母に呼ばれて座敷に向かっていたそのとき、原爆が投下されました。
被爆した母と姉は、1か月の間に相次いで亡くなり、父も戦死。飯田さんは3歳で原爆孤児となりました。

飯田國彦さん
「『助けて』と言いたかった。その時言えてたら、また違ったと思うけど、言えなかったというのがトラウマで残るんですよね、ずっと。何度も言いたいのに言えないところが夢に出てくる」

爆風で飛んできた無数のガラスが全身に突き刺さり、その傷は小学5年生まで閉じませんでした。

飯田さんは、仕事の関係で1993年から22年間、富山で暮らし、自らの体験をさまざまな場所で語り続けてきました。
「最後は生まれ故郷で伝えたい」
9年前からは地元に戻り、広島市公認の被爆体験証言者として活動しています。

飯田國彦さん
「もう80年か、いうような感じよね。まだまだやらないかんことがたくさんあるよね」

あの日から、80年。被爆体験を語る人が少なくなる中、その記憶の継承が課題になっています。