1950年4月7日。石垣島事件7人の死刑執行はスガモプリズン最後の処刑となった。翌年、日本はサンフランシスコ平和条約に調印し、1952年4月28日発効。スガモプリズンの管理は日本へ移管され、「巣鴨刑務所」と称されることになった。戦犯たちは減刑、仮出所が進むと期待に胸を膨らませたが、現実はー。

◆平和条約発効に期待を込めた戦犯たち

サンフランシスコ平和条約に調印する吉田茂首相(1951年)

石垣島事件で藤中松雄ら7人の死刑が確定した二回目の再審で、絞首刑から重労働40年に減刑され、ぎりぎりのところで死から逃れた炭床静男兵曹長。自宅に残された遺品の中に、スガモプリズンで製作したという筆箱があった。木製で蓋の部分に彫刻が施されている。この筆箱の裏には、「講和記念 巣鴨」と文字が彫られていた。

炭床静男がスガモプリズンで彫った筆箱

つまり、1952年に発効したサンフランシスコ平和条約(講和条約)締結を嬉しく思う気持ちが、この遺品には刻まれていた。しかし、炭床静男が実際に仮釈放されたのは、5年後の1957年9月だった。