◆生涯会えない別れになることをつゆ知らず

終戦の年、沖縄県石垣島で上官の命令に従って米軍機搭乗員を銃剣で刺した松雄がBC級戦犯に問われ、スガモプリズンに囚われたのは、1947年7月2日。ふるさとで拘束された日のことを、松雄は思い起こしていた。
<藤中松雄が父母に宛てた手紙 1949年9月13日付>
これで三度目の秋を迎えますが、入所当時の事を静かに振り返ってみますと、ちょうど昨日の事のように、その時の事が脳裏に浮かんできます。(地元の)大隈署の面会室で、みんなにかこまれて語りし事や、飯塚駅頭での生涯会うことの出来ない別れになる事をつゆ知らず「帰りを待っている」と励まされて別れました、あの時の情景、そして博多まで見送って下さった父の姿が今日はあざやかに描かれてきます。
◆頼るものなき妻子のことを思うと

藤中松雄は妻ミツコ(手紙の中では光子と表記)との間に2人の幼い息子がいる。松雄がいない中、ミツコは二人を連れてお盆には生家を訪ねたようだ。松雄は四男で兄弟も妹たちもいるが、ミツコには妹一人しかなく、それを気遣っている。
<藤中松雄が父母に宛てた手紙 1949年9月13日付>
お父さん、きょう、八月二十一日発静夫兄、二十三日発満兄、二十五日発光子、九月二日発民夫(弟)の便り、四通入手致しました。光子の便りにお盆には親子三人大変お世話になったと書いてあり、父母上様が何時も優しく慰めて下さいますと喜んでおります。姉妹も少なく、頼る者なき光子たちの事を思うと、全く断腸の思いがいたします。それだけやさしく慰めて下さる父母上様に感謝せずにはおられません。妻や子とは遠く見えざる異郷の地にて暮らしておりますが、心と心は一心同体で、妻や子が被る恩恵はそのまま松雄も受けているのであります。お父さん、これからもなにかでお世話になるかと思いますが、松雄の胸中ご推察の上、くれぐれも宜しくお願い致します。
松雄の生家でのお盆は、親族が揃い、にぎやかな様子だったのだろう。けがをして入院し、お盆に帰ることができなかった弟のことを「さみしいお盆を過ごした」と思いやると同時に、獄中の自分から見ると「他人事の様には思われません」と書いている。