◆手紙を兄弟からもらうばかり 誠にすみません

そうした手紙も送りながら、松雄は家族を思いやっていた。兄上様と書かれた手紙の日付は1949年8月30日、死刑執行の前年だ。
<藤中松雄の手紙 兄へ 1949年8月30日>※一部現代風に書き換え
拝啓 お盆も過ぎ、八月も最終日となり早朝は初秋を思わせる様になって来ましたね。兄さん達にはご無沙汰ばかりして来ましたが、その後もお元気にお働きの事と存じます。静夫兄や民夫(弟)からはたくさん便り、次から次に受け取ったまま返信も書かず、良心の呵責に耐えず、すまなく思っております。その旨、兄からよろしく言って下されば幸いと存じます。
◆週二通の手紙 一通は子に

<藤中松雄の手紙 兄へ 1949年8月30日>
七月十九日から週二通まで許可になり、毎週欠かさず書いておりますが、一通は連続、子に書き、兄弟からはもらうばかりで誠に申し訳ございません。兄さん、こんな歌が出来ました。
死の時の迫りてあれば毎週に一度のふみは子らに送れり
にもかかわらず、山なす兄弟の便り、今更の如くしみじみと肉親の親しきを痛切に味わい量り知れない兄弟の有り難さを心から喜んでおります。悲しき無学な私にはただ、以上の如くにしか言い現せませんが、切なる弟の気持ちだけは察して下さると思います。
藤中松雄はミツコと結婚して藤中家に婿養子にはいった。松雄の生家では四男で、兄が三人(一人戦死)、弟が二人いる。ミツコとの間に二人の息子がいて、長男の孝一はこの時7歳。次男の孝幸は2歳だった。手紙を読むことができる孝一に、毎週手紙を書いたということだ。孝一からは獄中に手紙が届いている。なお、松雄は手紙では、自分の名は「松夫」、妻ミツコは「光子」と記している。