◆とにかく命だけは取り止めてやってください

小浜正昌の父が弁護人に宛てた手紙(国立公文書館所蔵)

<小浜正昌の父が弁護人に宛てた手紙(国立公文書館所蔵)>
嘆願書は八重山民政府並び村役場をあげ、速急に送り届けるようにして戴きまして、親として只々皆様方のご芳情に感涙いたしている次第です。きょう最初に当部各団体の(嘆願書)が発送されます。なお、次々と村内各集落の団体、又は郡下各集落団体の嘆願書、連名が行く事と思いますから、返す返すも宜しくお願い申し上げます。取り急ぎ何を申し上げて良いやらわかりません。とにかく生命だけは、何とぞ取り止めてやって下さいませ。子を持つ親としての頼みであります。

国の為に一個人が罪を受けし事については、私は子の為に親が犠牲になっても、この老いた身は何も惜しむ身ではないと考え、どうにかして正昌を救ってやりたいと考えるものでございます。何とぞ、弁護士様で米第八軍法務部長にも特別のご好意の程節にお願い申し上げます。正昌宛ての手紙を同封致しますから、もし届ける事ができませんでしたら内容だけでも知らせてやって下さい。

お言葉に甘えて本当にご無理申し上げて済みません。宜しくお願い申し上げます。 敬具

四月二十日 弁護士 村田保定殿

◆沖縄出身者の戦犯減刑署名運動

沖縄県石垣島

大城英吉と同様に小浜正昌も1949年、死刑から減刑された。ただ量刑は重労働5年だったので、その後もおよそ3年をスガモプリズンで過ごした。

沖縄県史(1974年沖縄県教育委員会編)に「石垣島事件の戦犯として」と題して小浜が寄せた文章には、鳩間島に帰ったときには集落総出で生還を喜んでくれたとあった。また、石垣島事件で死刑の判決を受けた沖縄出身者7名について、当時、沖縄連盟や青年同盟の幹部らを中心に郷土兵の戦争犯罪減刑署名の運動が展開され、その嘆願書によって減刑となったと書かれていた。小浜は竹富町の職員となり、最後は助役まで務めた。