◆釈放後6人の父親になったものの・・・

石垣島事件の法廷 左から3人目の顔半分が写っているのが大城英吉(米国立公文書館所蔵)

石垣島事件の被告は46人もいるので、1947年12月3日に撮影された横浜軍事法廷での写真は、大城英吉は被告席ではなく傍聴席に座っている。顔は半分しか写っていないが、長男はまず「この人物は父に間違いない」と話したという。大城がこの位置に座っていることは、国立公文書館にあった座席表から推察されていたが、これで裏がとれた。

そして1948年3月16日撮影の立ち姿の写真も、やはり「父です」と確認した。当時20歳くらいだった父の姿は、長男の若い頃にも似ているという。大城英吉の身長は173センチで当時としては大柄だった。スガモプリズンから釈放されたのは、1949年2月だが、長男は翌年1950年の生まれだった。大城は全部で6人の子どもを授かり、石垣島の製材所で働いていたが、36歳で病死したという。ふるさとの鳩間島には、97歳の妻が健在だということだった。死刑宣告を受ける写真とはいえ、若くして亡くなってしまった父の写真を是非、母に見せたいと話したそうだ。長男自身は「戦犯の子ども」として特に差別をされるなど、いやな思いをしたことはなかった。

◆戦犯を救え 活発になった嘆願運動

大城英吉と同じく鳩間島出身の小浜正昌(米国立公文書館所蔵)

八重山郡の鳩間島から大城英吉と小浜正昌の二人が戦犯に問われ、しかも死刑の宣告を受けたことは、故郷では同情を集め、嘆願運動が活発になったようだ。死刑の判決後、小浜を担当した村田保定弁護士からの手紙に対して小浜正昌の父が出した手紙が、国立公文書館の石垣島事件ファイルに入っていた。判決当時、まだ19歳だった息子をなんとしてでも助けたいという悲痛な思いと、続々と嘆願書や署名が集まっている様子がうかがえる。

<小浜正昌の父が弁護人に宛てた手紙(国立公文書館所蔵)>
※現代仮名遣いに変更
拝復 三月十八日付のご丁重なるお手紙、本当にありがたく拝見、自分らの目を疑い、いくたびも繰り返し拝読いたし、ご芳情に深く感涙いたしました。

新聞紙上での(死刑の)発表を見ての後、今日が今日まで、私たち親子は仕事も落ちつかず、毎日、祖先の前で嘆き悲しみに暮れてきましたが、今日の郵便を手に取って、天より宝物を給わった様な気持ちが致して、早速、母なる者は祖先にお線香を上げ、皆様の御情深いご努力を何とぞ、聞き届けて下さいとお祈りいたしました。

何とぞ、再審の節は出来る限りのお力添えを懇願する次第であります。私たち、鳩間島より小浜正昌と大城英吉と二人で、今では彼らを志願せしめた事が悔いられてなりませんが、しかし過ぎ去った事は思い出しません。現在直面している正昌の生命の事については、何分、十二分なる御配慮を願う次第であります。