1945年4月15日、沖縄県石垣島で米軍機搭乗員3人が日本兵によって殺害された石垣島事件。戦後、捕虜虐待としてBC級戦犯に問われたうちの一人、事件当時17歳だった二等水兵の写真が親族によって本人だと確認された。一枚は法廷で着席している写真、そしてもう一枚は弁護人とMPに付き添われ、死刑の宣告を受ける写真だった。死刑の判決後、一転、執行猶予五年に減刑されて釈放、ふるさとへ帰った元少年兵はどんな人生を送ったのかー。
◆77年前の法廷写真 元二等水兵の姿を特定

この「連載#88」で、国立公文書館で公開された石垣島事件の裁判資料についての記事を掲載した。終戦から2年が経過した1947年9月4日、沖縄県八重山郡の鳩間島出身の元二等水兵、大城英吉は米軍の軍人たちを石垣島事件で米兵3人が殺害された現場に案内した。そのことが記された調書があったのだ。その調書には、要所要所を指さしている大城英吉の姿も写真で添付されていた。
◆郷土の歴史家から連絡 親族の確認へ

この記事を見て、石垣島在住で八重山の歴史を研究している大田静男さんから連絡があった。大田さんは「八重山の戦争」(1996年南山舎)で石垣島事件の現場などにも触れていて、ロケでお世話になった方だ。石垣島事件の被告たちを裁いた横浜軍事法廷では、1948年3月16日、3人の米兵の処刑に対して41人に死刑が宣告された。しかし、翌年の再審で大城は「執行猶予5年」に減刑されて、まもなく釈放された。一緒に死刑判決を受けた同じ八重山出身の二人に比べて格段に量刑が軽いのを、大田さんは不思議に思っていたのだという。
大田さんと情報交換するついでに、大城英吉の写真の特定作業が行き詰まっていることをお伝えした。すると、大田さんから「調べてみます」と返事がきて、1週間ほどで大城の長男と連絡をとり、写真の確認をして下さった。結果は、2枚とも「父が写っている」とのことだった。