次々に執行される絞首刑 朝鮮戦争勃発で状況に変化

戦犯死刑囚となった堅太郎はこの時、34歳。気持ちを切り替え、再審に減刑の望みをかける。安余も嘆願書を集め、署名活動に奔走する。そうした日々の中、死刑を執行される人々が旅立っていく。

アメリカ兵の捕虜3人が殺害された石垣島事件。7人の日本兵が死刑になった。そのうちの一人、28歳で命を奪われた藤中松雄一等兵曹。堅太郎は別れの挨拶に来た7人の様子を日記に書き留めていた。

冬至堅太郎の日記より(1950年4月5日)
「5人目は藤中君。これも笑顔で房の前にあらはれた」
『とうとう行きますよ。仕方がないです』
「どうせゆく先は一緒です。再会を楽しみにしていますよ」
『あなたたちは助かってください』
「いや、どうせやられます。元気でおゆきなさい」
『ありがとうございます、じゃあ』

1950年4月7日、7人の死刑執行。13と書かれた扉の奥に絞首台があった。

その後、スガモプリズンの状況が変わる。6月25日、朝鮮戦争勃発。北朝鮮の軍隊が北緯38度線を越え、南部への進撃を開始。アメリカ軍を中心とした国連軍が韓国を支援する。

冬至堅太郎の日記より(1950年7月11日)
「7月11日 火。西部軍全員減刑の報。今朝のラジオニュースによれば、『西部軍事件七名無期に減刑の旨発表されました』とアナウンスし、それに応じて大勢の拍手がきこえた」

堅太郎は終身刑に減刑。石垣島事件の死刑執行を最後に、スガモプリズンでの処刑はなくなった。その3日後…

冬至堅太郎の日記より(1950年7月14日)
「7月14日、米兵出発。看守から、近日中にここは日本政府の管理に移され、米兵は全部朝鮮へ出動すること、すでに一部は出発したことを聞いた。これらの兵が北鮮軍(北朝鮮軍)の銃火にバタバタと死ぬのかーーと思うと私は可哀そうでならない。彼らもすっかり憂鬱な顔をしている。戦争は嫌だ」