日記に記されたスガモプリズンの日々 宣告された判決は

戦争が終わった後、堅太郎はBC級戦犯としてスガモプリズンに収監された。妻・安余が1歳の次男を連れ、面会に訪れる。

冬至堅太郎の日記より(1946年9月26日)
「安余、ありがとう。遠い福岡からはるばると子供を連れ汽車の混雑にもまれての旅はどんなに辛かっただろう、私はただ君の顔を見ただけで有難さに涙がこぼれそうになった。然し私たちの間に張られた金網が光ってかすみがかけたようだ」

スガモプリズンまで面会に行った記憶がある、堅太郎の次男・眞也さん(79)。

冬至堅太郎の次男 眞也さん
「おやじともあんまり会ってないし、小さいころは。だって拘置所にいましたから。死刑囚だった。そういう状況の中で僕を連れて母が、『眞也行こう』って。おやじに会わせたかったのだと思う、母の気持ちとしては」

夫がいない中、安余は文具店を新装開店し、商売を続ける。

冬至堅太郎の日記より
「君は私のため、子供のために必死の戦いをしている。私も闘わねばならぬ。君は世の荒浪と闘う、私は静かに自分自身とたたかふ、何れも此の運命との闘争である」

アメリカ軍によってひらかれた横浜軍事法廷。捕虜の虐待や殺害がBC級の戦争犯罪として裁かれた。堅太郎がいた西部軍で殺害された捕虜は、約40人だった。

西部軍事件の主任弁護人は、アメリカ人のフランク・サイデル。そして堅太郎を担当したのが横浜弁護士会の桃井銈次だった。

冬至堅太郎の日記より
「午前中、桃井弁護士と会う。私の弁護について非常に困難で、処刑者中最悪の条件にあるという。私もそう思います。私は処刑者としての責任は喜んで負いますが、殺人者としての罪はきたくありません」

堅太郎は法廷で証人台に立つことを望んだが、願いは叶わなかった。

判決間近(1948年12月22日)、スガモプリズンの若い看守と堅太郎との会話が日記に記されていた。

看守
「今でも君は米兵に対して怒りをもっているか?」

冬至堅太郎
「いや全然もっていない。今は母はアメリカ人に殺されたのではなく、大きな戦争のために死んだとしか思っていない」

看守
「4人処刑したときはどんな気持ちだったか?」

冬至堅太郎
「志願するまでは本当に怒っていたが、処刑の位置についた時にはただ立派に処刑を遂行することより他は考える余地がなかった。あとで私の妻にこの処刑のことを話したら、妻は『その飛行士たちには奥さんや子供があったでしょう』と言った。僕は言葉がなかった。しかし『これが戦争というものだ』と思った」

この翌日、スガモプリズンでA級戦犯7人の死刑が執行される。死への恐れと緊張が高まっていた。そして…

冬至堅太郎の日記より(1948年12月29日)

「12月29日 水 晴。遂に来るべき判決の日は来た。絞首刑!これが私に与えられた判決である」