次の世代に伝えていくために
取材を続けながら、どうしても答えが出ないあの場面…

西宮市のマンションの倒壊現場で記者が浴びせられた「カメラ撮るヒマあったら手伝えって!」という言葉。

広島市に住む、加藤りつこさん(76)は46歳のとき、あのマンションに住んでいた大切なひとり息子を失った。

当時、神戸大学法学部2年生だった加藤貴光さん。将来は平和のために国連で働きたいと、夢と希望に満ちあふれた、21歳だった。
加藤さんは地震の翌日、広島から貴光さんが暮らしていたマンションにたどり着いた。
加藤りつこさん
「どなたかわからない男の方が2人寄って来てくださって、『加藤さんですか』って言われたから『はい、そうです』って言ったら、お2人が横にパッと寄り添ってくださって、腕を取って、『奥さん、気を確かに』って言われて...」
「お布団が敷けるような隙間があって、そこに寝かされていたんですよ。信じられなかったですね」
貴光さんが大学生になり、一人暮らしを始めたとき、初めてこの場所を訪れた。
このとき、貴光さんはりつこさんに1枚の手紙をくれた。手紙は縮小コピーをして、今も肌身離さず持っている。

貴光さんの手紙より
「私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること。この20年で私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。そして今、私は、この翼で大空へ飛び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で」
貴光さんの手紙は、これまで何度かメディアを通じて伝えられてきた。この手紙が様々な出会いを広げてくれた。
加藤さん
「素晴らしい方と出会ったとき。それはすべて貴光のあの手紙からつながるんですよ。あの手紙を書いた息子さんのお母さん、ということでつながってくるんです。今もずっと、あれから30年間支え続けてくれている手紙なんですね」

清水アナウンサー
「過去の映像も見させていただいたんですね。ここのマンションNが倒れている映像で...。『カメラ回してんと手伝ってくれ』という声があった。りつこさんはどう思いますか」
加藤さん
「当時と今はちょっと違うと思うんですけれどね。当時だったらやっぱり、住人の方と同じような気持ちになったかもしれません。怒りが湧いたかもしれませんけど。今となったら、記録して残すっていうことはものすごく大事なことですね。記録してあるからこそ、今がある。今、この現在をたどれるんですよね。記録が無かったらどうなっただろうって。亡くなった貴光ひとり、個人にしてもそうですね。記録されていたからこそ、もう一度、今生きている人たちにも伝えられるんだって、思えるんです、今は。だから記録することはものすごく大事なことだと思っています」
清水アナウンサー
「やっぱり30年経って、前を向ける部分っていうのは増えてきているんですか」
加藤さん
「色んな視野を広げながらね。今まで学んできたことを、より広く視野を広げながら1年をしっかりと凝縮した1年にしてみたいなという気持ちはありますね。2025年、震災30年の12月20日が誕生日なんです、貴光の」

清水アナウンサー
「私も12月20日生まれです」
加藤さん
「うそっ!」
清水アナウンサー
「1995年の12月20日に生まれたんですよ」

加藤さん
「まあ…麻椰さん。12月20日…」
清水アナウンサー
「受け継いでいかないといけないし、ちゃんと伝えていきたいなと思いました」
加藤さん
「頑張ってね。ほんとに」
清水アナウンサー
「しっかり伝えます」
加藤さん
「伝えてください」
