女川原発 半世紀前の反対運動

阿部美紀子さん
「これが原発が建つ前の浜の風景です」

今、原発が建つ場所には、かつて風光明媚な砂浜があった。音の鳴る砂「鳴り砂」の浜として知られた、鳴浜だ。

鳴り砂の研究者(当時)
「長い歴史でできた砂で、人工的に作るということはほぼ不可能に近い」

1967年、この美しい浜に原発の建設計画が持ち上がる。原発の建設に強く反発したのが、安全性と生業の継続に不安を募らせた地元の漁師たちだった。

地元の漁師たち
「おらの海に(原発の)水を流したらいけないからな」
「なにが安全なんだ。原子力発電所は100%安全だと言い切れますか」

反対派の先頭に立ったのが阿部宗悦さん。美紀子さんの父親だ。

阿部美紀子さん
「写真あまり残っていないけど、津波で見つかった父の若い頃の、原発反対闘争し始めた頃の写真だと思う」

女川で船問屋を営んでいた宗悦さん。弱い者いじめが嫌いな人だったという。

阿部美紀子さん
「女だからこうしろ、女だからこうするなということはなかった。好きな事をやれと言われた」

女川原発の建設に親子で反対してきた、阿部宗悦さんと美紀子さん。実は宗悦さんは、東日本大震災発生の33年前、地震による原発事故の危険性を指摘していた。

阿部宗悦さん(1978年)
「マグニチュード7や8も想定される地震地帯である以上、放射能という問題を抱えながら心配される原子力発電所というものを、建設を許すということは到底できない」

阿部美紀子さん
「ここに写っているものくらいしか父親と一緒に写っている写真はない。23歳で家に帰ってきて、25歳くらいのときかな」

東京の大学に進学していた美紀子さんも卒業後、実家に戻り宗悦さんらの運動に加わった。

阿部美紀子さん
「私は写真を撮られるのが好きではなくて、よくマスコミが来て写真を撮ると私はいつも逃げていた。スパイではないかという噂が立ったくらい」

反対派の団体が発行した機関紙「鳴り砂」。題字は宗悦さんが書いたものだ。

原発建設の予定地となった、あの浜にちなんで名づけられた。今も受け継がれ、累計発行回数は311回を数える。

多くの仲間が支えた美紀子さんらの反対運動。当時の仲間とは今も交流がある。原発から1.5キロの場所に住む阿部七男(75)さんも共に闘ったひとりだ。

阿部七男さん
「若かったね」
阿部美紀子さん
「一生懸命やったもんね」

漁師だった七男さん。今も原発反対の考えは変わっていない。

阿部七男さん
「とにかく自分たちばかりではなく、のちの子どもたちとかのことを考えると、反対するほかなかった」