■「あんなことになるって分かっていたら、誰一人として行進に参加しなかった」


まずはジョンさんの車で当日の出発地点へ。

弟を殺された ジョン・ケリーさん:
「私たちは今、クレガン地区に入ってきました。大きな住宅団地で、1万人くらい住んでいます。かつてはたくさん衝突がありました。IRAと英軍との間でね」

ジョンさんはクレガン地区に入って少しのところで車から指を差しながら場所の説明を始めました。

「私たちが今いる通りの左側に軍の拠点があって、IRAは通りの右側を少し上がったところから軍に向けて撃っていたものです」

車をさらに進めると、教会が見えて来ます。

「私たちはみんなこの教会で葬儀をするんです、セント・メアリー教会。みんなここから葬式を出します。で、墓地はすぐ近くです。

この辺りはクレガン地区のど真ん中。英国人は『ハードコア・リパブリカン地区』と呼んでいました」

ーーあなたもこの辺に住んでいる?

「この先をちょっと行ったところです」

クレガン地区での銃撃は比較的最近も起きています。2019年には有望なジャーナリストが死亡しました。

「ライラ・マッキーの話、知ってますか?若手ジャーナリストだった。彼女がこの地区で起きた暴動を取材していたら、IRAの男が離れたところから彼女がいた街灯のほうに向けて撃ち、その弾が当たって死んだんです。ほんの2年前の出来事です。2年も経ってない。ライラ・マッキーって名前でした」

ーーあの事件はショッキングでしたね。

「本当にね」



ジョンさんと私たちはクレガン地区の少し広い通り沿いに車を止め、歩きはじめました。

「1月30日の朝、ここに集まって行進、じゃなくてウォークをします。『デモ行進』じゃないんです。『追悼ウォーク』です。遺族の多くが参加します」

ーー50年前、ここが集合場所だった?

「そうです。向かいにある野原ですね。野原にあつまって、そこから歩き始めたんです。当時私は23歳で、既に結婚していました。20歳で結婚したんです。当時はみんな早くてね。子どもも1人。政治活動していたわけじゃないけど、公民権運動のデモには行っていました。

カトリック系は2級市民扱いでほとんどの人は投票権がなく、多くの人は仕事がありませんでした。仕事に就くのは常に大変でした。いつも困難が伴いました。面接に行くと、最初に聞かれる質問は「どこの学校に行きましたか」でした。名前からカトリックであることが分かることもあります。ほとんどの場合、それはマイナスに働きました。不平等でした。

みんなデモ行進を楽しみにしていました。どれだけ大きくなるか、たくさんの人が参加する見込みでしたから。みんなわくわくしていました。若い男女、高齢者、ベビーカー押しているお母さんとか…」

ーー英軍とのいざこざを予期していなかった?

「いいえ。ちょっとした暴動の可能性はあったかもしれませんけどね。当時、それは日常でしたから。“土曜のマチネー”といって、週末、若者たちがボグサイド地区、ロズヴィル通りに行って投石して、ゲラゲラ笑って楽しんでいました。



あんなことになるって分かっていたら、誰一人として行進に参加しなかったでしょう。我々としては“公民権”、“令状なし拘束反対”を訴える、非暴力の行進に参加しているつもりでした。行進を通じてです。笑って、冗談を言い合って、歌を歌って。アメリカの公民権運動で歌われた『ウィ・シャル・オーバーカム』が行進中、ずっと歌われていました」

ーー当時、IRAをどう見ていた?

「その頃、IRAは表に出て来はじめたばかりでした。もともと背後にいる組織だったんです。まだ、あまり目につきませんでした。構成員の数もそんなに多くなかったはずです。でも『血の日曜日事件』がそれを変えたんです」

ーーところで現在、この辺りの雇用状況は?

「まるでダメです。昔あったシャツ工場も全部閉じちゃって、工業はまだ残っているけど、今やコールセンターがたくさんできました。若者の多くはコールセンター勤めです。なので若年層は仕事を求めて、街を出て行かざるを得なくなっています。実に悲しいことです。でもそれはカトリック/プロテスタントの話ではないんです。差別とか、そういうことではなくて、単にこの街に仕事がないんです。全部ベルファストで止まっちゃうんですよ。大きな工場とかそういうのは全部。で、ここまで来ないんです」

■「立ち話をして、別れました。その15分後、バーニーは死にました」


私たちはまた車に乗り込み、ボグサイド地区に向かいました。
フォイル川に向かって下り、左に曲がります。
今はコミュニティ・センターとして使われているかつてのガス関連施設周辺を通って、さらに左折して少し行ったところで、ジョンさんが北アイルランド紛争の重要人物2人の名前を口にしました。

「マーティン・マクギネス(故人。元IRA幹部。後にシン・フェイン党の政治家。北アイルランド自治政府の元副首相)知ってます?そこに住んでいました」

運転しながらジョンさんは右側の家を指さしました。続けて今度は左側をさしながら言います。

「ジョン・ヒューム(社会民主労働党の元党首。北アイルランド和平に貢献してノーベル平和賞を受賞)は知っていますか?あの辺に住んでいたんですよ」

話を聞きながら私は、南アフリカ・ヨハネスブルグのソウェトにネルソン・マンデラ元大統領とデズモンド・ツツ元大主教(共に故人)の2人のノーベル平和賞受賞者を出した通りがあることを、ふと思い出していました。

車は坂を上がって右折し、聖ユージーン大聖堂の方へ。ジョンさんによれば、50年前のデモ当日、この周辺には軍が配置され、ボグサイド地区に続く道は全部封鎖されていました。

ジョンさんが車を停めたのはウィリアム通り。あの日、デモ隊はこのなだらかに下る道を進んでいきました。私たちも下っていきます。ジョンさんはここから一気に話し始めました。



「ここで初めてパラシュート連隊の赤いベレー帽を見ました。封鎖箇所にいた兵士のことはみんな見えていました。兵士に向かって叫んだりしてちょっとした言い合いがありました。ただ私たちは気づきませんでしたが、封鎖箇所だけでなく向かって左手にある壁の向こうにも兵士がいたんです。



デモ隊はこの通りの先にあるギルドホールまで進もうとしていたんですが、突き当たりの交差点のところで道路は封鎖されていました。警察と軍によって。

その時、最初の2名の死傷者が出ました。ダミアン・ドナヒーとジョン・ジョンソンが撃たれました。ダミアンは15歳、ジョンは57歳。



兵士らは通りの反対側にいたダミアンの腿を撃ちぬきました。傍にいたジョン・ジョンソンは助けようと駆け寄ったところ、同じ2人の兵士から撃たれました。全部で5発発射されています。2人ともその日は一命をとりとめましたが、ジョン・ジョンソンは5か月後、けががもとで亡くなりました。

私はその頃、何千人もの参加者とともに2人が亡くなった周辺にいましたが、銃声は聞こえませんでした。騒音と、前のほうで起きていた投石騒ぎがうるさくて。これが午後4時の10分前のことです。

オフィシャルIRA(※IRAは「オフィシャル」と「暫定派」に分裂していた)のメンバーが、どこかにライフルがあることを知っていて取りに行き、兵士のほうに撃ち返しました。銃弾は教会の向こうに飛んでいきました。でも風の影響で、いま見えている柱のほうを狙って撃ったんですが、排水管に命中しました。



後に「排水管への銃撃」として有名になります。唯一の「反撃」でした。英軍は「デモ隊の側が最初に撃った」と主張して銃撃を正当化しようとしましたが、サヴィル卿調査委員会では軍が最初に、あの2人に向けて発砲したと結論づけられています。



デモ隊は交差点周辺に集まっていて、バリケードが左手にありました。その左手のバリケードで抗議行動をした人もいましたが、正面のバリケードでも抗議行動が始まり、投石などを始めました。デモ隊の多くは進路を変え右折してロズヴィル通りに入りました。



私は今いるロズヴィル通りの向こう側を進んでいきました。そこで知人に会ったんです。バーニー・マグウィガン(41)です。

少し立ち話をして、別れました。その15分後、バーニーは死にました。後ろから頭を撃たれて、銃弾は目から抜けました。ここから少し行ったところです」