北アイルランド紛争の中で分水嶺とも言われる、1972年の「血の日曜日事件」。デモ隊に対して治安部隊が過剰な暴力を行使したことで、その後、紛争はさらに悪化しました。これはその後も、世界中で続いているパターンでもあります。

50年目の現場を、当時、17歳の弟を殺された男性と共に歩き、事件をきっかけに武装組織IRAに参加した元メンバーにも話を聞きました。(取材:秌場 聖治 JNNロンドン支局長)

この街で紛争で亡くなった全ての人を思いましょう。

一つ一つの死は私たち全員の傷跡です。

祈りましょう。諦めなかった人たちのために。  

真実を求め、涙を流し、苦しんだ人達のために。

その真実が、過去の瓦礫の上に再建することに使われ、互いに石を投げ合うために使われないことを。

(追悼式典でのデリー司教の言葉)

■デモ参加の14人が犠牲に…「血の日曜日事件」


2022年1月30日。
北アイルランド・デリー(ロンドンデリー)のクレガン地区。川沿いから丘を上ったところにあります。

ちょうど50年前に起きた、北アイルランド紛争の転換点とも言われる『血の日曜日事件』の追悼ウォークが始まろうとしていました。



地域の子供たちを先頭に、犠牲者の写真パネルを持った遺族や関係者が続きます。

シュプレヒコールはありません。  
楽器を鳴らすこともありません。
淡々と進んでいきます。

1972年の1月30日も、同じ道を人々が行進しました。

支配層をプロテスタント系が占める中、二級市民の扱いだったカトリック系住民はアメリカの黒人たちの運動に刺激され、北アイルランドでも『Civil Rights Movement =公民権運動』を始めていました。カトリック系住民は、警察や軍による“令状なしの拘束”への反発も強めていました。

こうした拘束は、カトリック系で統一アイルランドを目指す“リパブリカン”の武装組織『IRA=アイルランド共和軍』や、イギリスの一部であり続けることを主張する“ロイヤリスト”の武装組織への対応だとして導入されましたが、主に標的となったのはカトリック系でした。

50年前の行進はそんな背景のもとで計画されました。

当時の北アイルランド当局は許可を出しませんでしたが、予定通り、決行されました。この季節には珍しく、晴れた日だったそうです。



そして、日が暮れるまでに市民13人が撃たれて死亡しました(負傷者1人も後に死亡)。

50年前、人々が埋め尽くした道を遺族たちが歩く


同じ場所から当時撮影した映像


先頭をいく、ジョン・ケリーさん(当時23)。『血の日曜日事件』で、弟のマイケル・ケリーさん(当時17)を殺されました。  

事件後まもなく設置された調査委員会では、発砲したイギリス軍を擁護する結論が出ました。ジョンさんは他の遺族らとともに長年、調査のやり直しを求めて運動。1998年、北アイルランド和平の機運の中で新たな調査委員会(サヴィル卿調査委員会)が始まりました。

そして2010年、「犠牲者の誰一人として兵士らに身の危険をもたらす存在ではなかった」との結論が出て、イギリス政府は謝罪しました。 

弟たちの名誉を回復する戦いを率いたジョンさん。一緒に現場を歩き、あの日のことを語ってもらいました。