■襲撃を避けるため「子どもの口を塞いだ・・・」
土地を奪われた住民や武装勢力が槍や銃をもって仙台村を襲撃しました。
丹野さんは当時12歳。
丹野茂夫さん:
「こっちの方で銃声がんがん聞こえて、泣き声が聞こえる」
逃げ込んだ森の中で聞こえてきたのは、赤ちゃんの泣き声と大人たちの会話。
丹野茂夫さん:
「泣き声が聞こえると襲撃されるから、泣かせないようにと、どうすればいいのかと。子どもの顔を口を塞いで窒息させたんじゃないか。2人か3人亡くなった。『ごめんね、ごめんね』と。あと泣き声はしなくなった」


住民689人のうち288人が犠牲になりました。

丹野さんは、現地中国人に養われ命をつなぎ、仙台市に戻ることができたのは1965年。戦後20年が経っていました。

帰国後は、中国残留孤児の現地調査や生活支援に奔走。
その一方、仙台市で水道設備会社を起こし、収益で中国の村に学校を寄付したこともありました。

丹野茂夫さん:
「戦争ではなく、みんな仲良くして平和な世界をつくっていく。そういう教育してほしい」

亡くなる前年、2019年に喉頭がんが判明しましたが、その年も中国へ。最後の訪問となりました。