■「やりきれない思いはあったんだと思います」

福岡県内で最も多い販売シェアを誇る「西日本新聞社」


戦争に加担したとされる報道は、この新聞社も例外ではなかった。
終戦の前の年、西日本新聞社では、本紙とは別に4ページのタブロイド判「戦時版」を発行した。

西日本新聞社 福間慎一デスク
「弱みを見せない紙面、自分たちが勝ってるんだということを内外に印象付けるというような紙面作りがされていたんだと思います」


当時、新聞は、勇ましい見出しを付ければ付けるほど売れ、「戦時版」も創刊から1年で発行部数が3倍近くに伸びた。


戦後70年節目の年、西日本新聞社は当時の報道を検証するため連載企画を組んだ。タイトルは「報国のペン」。連載では、当時、報道班員だったOBたちを取材。証言などを中心に記事にした。


その時に、終戦時に編集局次長を務めていた星野力さん(元編集局次長)のノートを入手した。政府や軍の取材にあたり、大本営の発表も記事にしてきた人だ。


ノートには軍が定めた報道規則などが、細かく記されていた。

西日本新聞社 塩入雄一郎キャップ
「後退展開なる用語は使わないと、転進、あるいは戦略展開と使用する、退くというのがダメなんでしょうね」


星野さんは、通信社が傍受したラジオの放送などから、アメリカ側の情報も入手していた。
大本営が、敵空母など19隻を撃沈したと嘘の発表をした「台湾沖航空戦」で、アメリカのラジオが流した内容は・・・

「日本連合艦隊は、米機動部隊の組織の大きさに驚き、一戦も交えず、遁走した。日本には一大痛棒に違いない」


西日本新聞社 塩入雄一郎キャップ
「戦況が悪化していくというのが短波放送とかでわかっていく中で、でも大本営発表、戦果を上げていくというのを書き続けるわけなんです。そこは星野さんとしては、やりきれない思いはあったんだと思います」

終戦の翌年、当時の戦争報道を改めるという思いから、編集局長の席の後ろには「編集綱領」が掲げられた。


日下部キャスター
「戦争報道の反省からこういう綱領ができた?」

西日本新聞社 塩入雄一郎キャップ
「そうですね。言論の自由と独立、報道の公正、真実っていうところに、やはり戦時中に書いてきたことの反省というか、教訓というか。戦時中は“勝つための報道”っていう向きがあるので、今のロシアの報道の仕方と繋がっている」