あの日のまま、時を刻む、福島県大熊町の帰還困難区域。木村紀夫さんは震災の教訓を伝える語り部だ。

「あの建物がああなってしまうような津波がここを襲ったということですよね」
この日は、広島や沖縄で伝承活動に取り組む人たちや、小学校の教師らが参加。13年経った今も、原発事故で立ち入り制限が続くこの場所を、被災体験を交えて案内している。
自宅は福島第一原発から約3キロ。家は津波で流された。

母親と長女は無事だったが、自宅にいた父親と妻、次女の3人が、津波にのまれた。翌日、原発事故で、住民に避難指示が出される。捜索していた警察や消防も全員が退避。木村さんは、苦渋の決断を迫られた。

木村さんガイド
「冷たいと思われるかもしれないけどその時コロッと意識が変わっちゃったんですよ。長女を何とかしなければならない。躊躇なかったですね」
行方不明の3人をおいて、避難せざるを得なかった。震災から1か月が過ぎ、妻と父親は遺体で発見。しかし、次女の汐凪さんは、行方不明のままだった。

木村さんは避難先の長野県から、毎月、車で6時間かけて大熊町へ。立ち入れる時間や日数に制限があり、重機も持ち込めないなか、ボランティアの協力で捜索を続ける。

少しずつ遺品が見つかり、近くの寺に保管。その一つ一つが、家族との日々を思い出させてくれた。

木村さんインタビュー
「走るのも早いし、一番思い出に残ってるのは幼稚園の時の年長さんの時のクラス対抗のリレーなんですけど、そのリレーでもし負けてて前のランナー抜いたら何かやるからって話したら、その通りやってくれて。一番最後親子でお遊戯みたいのするんだけど、最後高い高いみたいにするときにめい一杯放り投げてやりました」

汐凪さんが寂しくないように。自宅の裏山に、家族の慰霊碑と一緒に、お地蔵さんを建てた。

汐凪さんの遺骨が見つかったのは、震災から5年9か月も経ってからだった。














