私たちが愛しているのは“アイドルとして見せられた一側面

さらに残酷なのは、私たちが愛しているのが“人間”ではなく、“アイドルとして見せられた一側面”にすぎないということだ。

アイドルに限定して論じるのならば、アイドルはステージの上では“理想を体現する存在”としての側面を保たなければならないが、スポットライトの当たらない場所では、葛藤や不安を抱えた一個人としての「本当の自分」が確かに存在している。

アイドルという一面以外の一人の人間としての営みの部分だ。

しかし、ファンはそのアイドル以外の側面ではなく、演出された理想像を“その人のすべて”として受け入れ、その虚構に当事者意識を重ねてしまう。

つまり、どれだけ理解をしようとしても私たちが推せるのは、「人間としての推し」ではなく、「理想としての推し」なのだ。

だからこそ推し活とは、本来“愛する行為”であると同時に、その愛がいつでも反転しうる危うい綱渡りでもある。

筆者は消費性という側面から、オタクを「自身の感情に「正」にも「負」にも大きな影響を与えるほどの依存性を見出した興味対象に対して、時間やお金を過度に消費し精神的充足を目指す人」と定義しているが、「「負」にも大きな影響与える」と明言しているのは、この人間としての推しの部分が理想との乖離を生み出し、不祥事、恋愛発覚、活動休止や引退、素行の悪さなどを知ってしまったことで、好きだからこそ生まれる反動の感情が生まれてしまうからだ。

そんなに興味がなければ芸能人の結婚の話題なんて自身の人生に何ら影響を及ぼさないが、人生をかけて好きな対象が、自分の知らないところで/自分ではない誰かと、恋愛関係にあるということは、たとえ読者の皆さんが誰も推したことがなくとも、その胸の痛みは容易に想像つくのではないだろうか。

生きる希望・光を取り上げられる感覚だ。

SNSや対面イベントが加速させるパラソーシャル関係

併せてファンが推しに対して抱く「恋愛感情」や「親密さの幻想」は、しばしば面識のない相手(テレビの有名人やインフルエンサーなど)に対して、一方的に親近感や友人関係のような感情を抱く心理的な関係性=パラソーシャル関係(parasocial relationship)として説明される。

しかし現代の推し活においては、その境界が急速に曖昧になりつつあり、かつては画面の向こうに存在していた“偶像”が、今では手を伸ばせば届くほどの距離に感じられる。

SNSのコメント欄にメッセージを残せば、推し本人から「いいね」や返信が届くこともある。

握手会やお話会、写真撮影会といった接触イベントでは、物理的に接触することができる。

さらにライブでは、ステージ上のアイドルが特定のファンに視線を送るなど、名前や存在を認知されることも昨今のオタクのステータスの1つになっており、「自分は認知されている」「つながっている」という実感を生む。

その物理的・心理的な近さが、ファンに “自分は特別である”という錯覚を与え、推しを“身近な存在”としてリアルに感じさせるのだ。

こうして一方向的であるはずの関係は、あたかも双方向的であるかのように錯覚され、ファンの感情的関与をいっそう深めていくのだ。

それでも現実的な親密性――たとえば相互の感情共有や日常的交流――を伴うことは基本的に不可能である。

さらに、健全なアイドル運営体制のもとでは、ファンとアイドルの過度な接近や私的関係の構築は意図的に制限されている。

これは、偶像としての「理想の自己像」を維持するための構造的要請でもあり、同時に、ファンが“推しとの距離を保つ”ことによって幻想を持続させるための装置でもある。

したがって、ファンが推しに対して恋愛感情(いわゆる「ガチ恋」)を抱いたとしても、その関係が現実的に成就する可能性は極めて低いのが現実だ。

それでも我々が推し活をする理由

では、なぜ私たちは誰か/何かを推すのか。推しとは、必ずしも異性でも、恋愛対象でも、人間である必要すらない。

それはアニメや漫画、物語の中の登場人物のように、 現実には存在しない虚構の存在であることも多い。

むしろ、自分の愛が決して届かない相手である場合の方が多いのに、私たちは一途に、見返りを求めずに愛を注ぐことができる。

それは「推しが元気でいてくれることが嬉しい」「推しがいるから自分も頑張れる」―― その想いの根底には、理想であろうと、偶像であろうと、 希望となる存在が“そこに在る”ことへの感謝があるからだ。

推しが推しでいてくれる、それだけで世界は少しだけ明るくなる。

だからこそ、推しが自分の理想から逸れたり、「今までの推し」でなくなってしまうことは、ファンにとっては生きる支点を失うに等しい出来事となる。

その喪失の痛みが、時にシャーデン・フロイデ―― すなわち“愛の裏返し”を生み出してしまうのだろう。

結局のところ、「推す」という行為は他者のためという名目のもと、 “自分のため”の行為なのだ。

推しのために行動しているようでいて、実際には自分が応援することで精神的な充足を得ている。

生きる意味を見出し、日々を支える糧を得るために推す。それは利己的でありながら、きわめて人間的な営みだ。

だからこそ、裏切られたと感じたときに自分を守ろうとするのも、また自然な反応なのだ。

推すという行為は、利己と献身のあいだを往復する、人間の感情そのものの表現であると筆者は考える。

(※情報提供、記事執筆:ニッセイ基礎研究所 生活研究部 研究員 廣瀬 涼)

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