なぜ推しのことを嫌いになるのか
2021年5月22日、元AKB48の柏木由紀が自身のYouTubeチャンネルにて、アイドルとファンの関係性について語った。
この動画では柏木がファンから来た質問について回答していくという旨の内容であり、その質問の一つに「推しの外見が最近どんどんやんちゃになっていく。本人の理想のアイドル像と、やりたいことが相反してきているように思う」との質問が寄せられた。
柏木はこれに対し、成長するうちに外見を変えたくなると答えたうえで、ファンからの「もっとこうしたほうが良いよ」といった意見について自分を否定されたような気持ちになり、落ち込むと、正直な気持ちを明かした。
確かにアイドルにとっては自身の人生であるからこそ自分の活動は「私事」にしかすぎないのは確かだが、ファンからの人気がメディア露出のための条件に近しいこともあり、いわば「推している」という状態はアイドルではなくファンの方に強いイニシアチブがある。
オタクにとっては、自身の理想から推しが離れたら(消費したいと思わなくなったら)いつでも他のメンバーやもしくは他のアーティストに乗り換えることができる一方で、アイドルは自身のファンが他のメンバーやアーティストに流れてしまわないようにセルフブランディングする必要がある。
アイドルは与えるものから、与えられるものとしての側面が大きくなっているともいえるのかもしれない。
アイドルオタクにとっては、推すということが生活の中心であるため、言い換えれば彼女たち(の人生)は他人事ではなく「ワタクシゴト」となっていく。
そのため、自分の思うようにならないこと(理想どおりの活動をしないこと)に対するもどかしさは、やがてアイドルを非難する要因そのものへと繋がってしまうと筆者は考える。
ただし、その非難の背景には敵意ではなくむしろ共闘意識がある場合が多い。
オタクは「売れてほしい」「もっと評価されてほしい」「自分の好みでいてほしい」という思いから、推しに対して自身にとって“正しい(と思う・思いたい)方向へ導くための意見”を口にしてしまう。
それは一見すると説教や干渉に見えるが、根底にあるのは応援の延長としての焦りや責任感である。
彼らにとって推しの「今」は、これまで“信じて応援してきた”という信念と、共に経験し、支え合ってきた時間の延長線上にある。「共に歩んできた」という関係性は、ファンに“この方向性(=自分の理想)こそ正しい”という確信を与え、それが推しの行動を評価し、時に干渉する際の基準となっている。
そのため、その基準――言い換えれば「自分の理想や好み」――から逸脱する行動を目にしたとき、ファンはまるで共に築き上げてきた物語を否定されたような感覚に陥り、思わず介入的な言動を取ってしまうのである。
熱心に推してきた古参のファンほど、長く支えてきたという自負とともに、「以前のほうが良かった」という感情を抱きやすい。
長年にわたって推しの成長を見守ってきた分、その変化を“支えた者としての責任”や“かつての理想”と結びつけてしまうからだ。
一方で、新参のファンは距離の近さを錯覚しやすく、むしろ軽い気持ちで「前のほうが良かった」「最近変わったよね」と口にしてしまうことがある。
それは、かつてテレビやSNS越しに“評論”していた時の延長であり、実際に握手会やお話会などで対面するようになっても、その半ば傍観者的な距離感を引きずったまま関わってしまうためである。
柏木が同動画の中で「その人が変わってしまったら、また違う人を見つければいい」と、ファンは「応援する」という立場であって、自分の好みを押し付けようとする姿勢に対して疑問を投げかけている。
柏木の言い分ももっともであるが、「アイドルの存在がワタクシゴト(精神的充足に繋がる消費対象)となっているオタク」と「推されないと日の目を見ることができないアイドル」は言わば相互関係である。
外見、内面、ビジョンを評価して推しているのに、本来の見た目や目標が変わると言う事は、ファンにとっては「自分がこれまで信じ、評価してきた対象」との乖離を意味する。
それは同時に、自らの推し活(=時間・お金・感情の投資)を否定されることにも等しい。
ゆえに、裏切られたという感情が生じ、これまでの推し方や応援を“正当化”するために、ファンはアイドルに価値観を押し付け、それを「自分には言う権利がある」と信じてしまうのかもしれない。
それでも、推しが自分の理想とは異なる方向へ進んだり、自分の意見や想いを否定されてしまうと、前述のように――オキシトシンの分泌 → 愛情・絆の深化 → 理想と現実の不一致(愛が必ずしも成就しない)、という流れを経て、その強い愛情は“裏切られた”という痛みによって愛憎転化を起こす。
「離れないでほしい」「関係を終わらせようとするのを許せない」――そうした感情が示すように、他者への愛情が深くなるほど、関係が理想どおりにいかなくなったときの不安や怒りはより強くなる。
そして、その感情が抑えきれなくなったとき、憎しみはやがてシャーデン・フロイデへと姿を変えるのだ。
アイドルや声優の熱愛が発覚する事で、自身の集めたグッズを燃やしたり、破壊し、そのままアンチになる者もいる。
オタクとアンチは相反するものではあるが、恋愛をしている=理想通りではない という事実が愛を憎しみへと変化させてしまうのである。
オタク界隈でいうところの、元々は特定の作品、人物のファンだった人間が、何らかの理由で対象のことを嫌いになり、アンチ化する所謂「反転アンチ」となるわけだ。
それゆえに、例えば推しが熱愛発覚後に仕事が減少、その後破局・離婚したり、イメチェンをした結果グループの選抜メンバーやフロントメンバーから外されるようなことがあれば、「言わんこっちゃない」と、推しが失敗やうまくいっていないことに対して優越感や幸福感を抱き、それをネタに匿名掲示板やSNSで叩いたり、推し本人に誹謗中傷や殺害予告ともとらえかねないメッセージや手紙を送り、自身を正当化しようとする行為も散見される。
もう好きでないならばファンをやめて、離れればいいだけのことなのだが、それができずにいつまでも執着し、そのコンテンツ=推し にかかわり続けようとしてしまうからこそ起きてしまう感情の変化なのだと筆者は考える。
しかし、前述したとおり、こうした行為の根底には、単なる憎悪ではなく、かつての愛情の残滓がある。
「好きすぎた」からこそ、完全に手放すことができないのだ。
推しを否定しながらも、心のどこかで「また自分の理想に戻ってくれるのではないか」と、一抹の希望を捨てきれずにいる。
そしてその希望が、執着へと変わり、批判という形でつながりを保とうとする。
ある意味で、反転アンチとは“愛の延命”である。自分がアンチをやめてしまえば、本当に推しとの関係が完全に途切れてしまう。
その恐れが、怒りや攻撃という形をとって表出しているにすぎないと筆者は考える。
つまり、憎しみは「まだ繋がっていたい」という願望の裏返しであり、その歪な関係の中にも、かつての愛の名残が確かに息づいているのだ。
ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」
推しとは、単なる「好きな存在」ではない。
私たちが推しに惹かれるのは、その人が自分の理想を体現してくれる存在だからであり、同時にその理想を自分の手で育てていける(一緒に歩んでいける)という“当事者意識”を持てるからだ。
それゆえに推しとは、私たちの中にある愛・嫉妬・理想・自己正当化のすべてを映し出す鏡であり、希望でもあり、残酷さそのものでもある。
いくら強い当事者意識を持っても、私たちは推し本人にはなれない。いくら深く関わろうとしても、その行動や選択を自分の意志でコントロールすることはできない。
自分はその人を心から大切に思い、自分もきっと“必要とされている”と信じている。
たしかに推しにとってもファンは大切な存在だが、ファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」にすぎず、どれほど生きる意味を推しに見出し、その人生に当事者意識を重ね、時間も感情もすべてを捧げたとしても、推しの生活の中に自分という存在が入り込むことはできない。
そして、推しから見れば、それは“そういうもの”なのだ。
だからこそ、関係は一見「相互的」に見えても、その実、どちらも簡単に手放せる脆い均衡の上に成り立っている。
ファンは理想から外れた「推し変」をすることで推しを見限ることができ、推しもまた、理想を押し付けるファンを「他の誰かを推せばいい」と突き放すことができるの。
推しにとってファンは「大切な誰か」ではなく、「大切な多くの一人」にすぎず、ファンにとっての“唯一無二”は、推しにとっては“構造的に代替可能”なのだ。
それゆえに、自分にとっては推しがすべてだけど、推しは自分を置き去りにして先に進んでしまう。
いくら対面で推しに意見(自身の理想)を述べたとしても、その通りになることは少なく、その結果自分の存在が無視されたような感覚や、自分ばかりが推しにとって自分の存在が大切だと思い込んでいたと気づくことに対する虚しさや苛立ちが生まれてしまう。
推し側は裏切っているつもりではないのだが、自身が推しにとって特別な存在であると信じていた自己認識が、現実の関係構造によって否定されたときに生じる認知的不協和によって、裏切られたという感覚を生んでしまうのである。