両手握手で目を見つめ…“佳子さま流”で日系1世に心寄せ

記者が同行していて改めて印象的だったのは、佳子さまの「両手握手」。両手を差し出す懇談スタイルは、皇室ではあまりみられない。相手が子どもであれ高齢者であれ、佳子さまはときにこの方法で言葉を交わされた。
今回、佳子さまが各都市で交流されたのは、かつて日本からブラジルに移住した人やその子孫。また、現地で亡くなった日系人たちの慰霊碑に花を手向けられた。


歴史を振り返る。20世紀初頭、日本は食糧不足などの問題を抱えていて、国策として海外移住が推奨されていた。その後、約26万人の日本人が海を渡り、ブラジルへ。最初の移住は、サンパウロ州のコーヒー農場への雇用契約移民だった。「ブラジルには金のなる木、コーヒーがある」などとうたわれたが、移住者は厳しい労働を課せられ、帰国がかなわないまま現地に定住した人も。現在、ブラジルには200万人以上の日系人が住んでいて、世界最大の日系コミュニティを築いている。

こうした苦難の歴史を受けて、これまで皇室はたびたびブラジルを訪ね、日系人に心を寄せてきた。そしてそれは佳子さまにも引き継がれた。佳子さまは、当時海を渡った当事者である「日系1世」一人ひとりの目をじっと見つめ、両手で手を握り、「お体をお大事にしてください」「今はどのように過ごされていますか」などと労われた。

日系1世の男性(79)
「地球の裏からブラジルまでいらっしゃって。お墓に眠る苦労した日系人たちにも『ご苦労様でした』って。皇室の方が来られて感激いっぱいでした。皇室の方とお話しできたのなんて初めてですよ」
日系1世の男性(89)
「私はブラジルに来て60年。コーヒー農場で働いてきた。当時は苦しくて大変な環境だったけど頑張ってきて良かったと思う。皇室の方がああやって手を握ってくれるなんて。佳子さまの手、あたたかくて柔らかいの。報われた気持ちがした」

ほか複数の1世が口にしたのは喜びの声とともに、「皇族の方なのに、目線を合わせて接してくれた」という内容だった。日本を離れた当時(昭和)の皇室のイメージと比べると、驚くほど距離の近い印象を抱いたことだろう。
予定外の声かけ、とっさの気配り…現地で見えた心づかい
交流は1世だけでなく、2世3世と続く子孫や若いブラジル国民とも行われた。パラナ州・ロンドリーナで行われた歓迎行事でのこと。多くの地元住民から、和太鼓パフォーマンスなどで迎えられた。もともと、佳子さまはステージ鑑賞後すぐ会場を後にする予定だったが、佳子さまから「お話ししてもいいですか?」と、自ら子どもたちに声をかけに。輪の中に入り、一人ひとりの目を見て丁寧に交流された。

佳子さま
「太鼓のエネルギーがすごくよく伝わりました」「力が要りますよね」「とても仲が良いんですね」「どれくらい練習してるんですか?」「10年も!」

日系人だけでなく、それ以外のブラジルの子どもたちとも、通訳を介して会話を弾ませた。そして10分弱交流したあと、全体を見渡してこう話された。
佳子さま
「まだ挨拶できていない方いますか…?」

時間が許すかぎり、相手国の人たち全員と交流したい。一人ひとりと言葉を交わすことを大切にする、佳子さまらしい心づかいが見えた。

日程終盤には、こんな場面も。リオデジャネイロで、子どもたちがサンバを披露したあとのことだった。パフォーマンス後の交流で、13歳の日系3世の子が感極まって涙した場面があった。それを見た佳子さまは、女の子の気持ちを受け止め、優しくハグされたのだ。

女の子は取材に「佳子さまが一緒に手を叩いて踊ってくれたことが嬉しくて、泣いてしまった」と話した。皇族によるハグはとても珍しい。複数の宮内庁関係者によると「ご公務で一般の方を自ら抱きしめるというのは、最近では例が思い浮かばない」という。





記者は2週間、およそ30か所の訪問先で佳子さまの様子を見て、さまざまな場面で相手国民への気配りを感じた。お菓子を口にしたシーンやハグの場面に象徴されるように、佳子さまの公務スタイルは相手との距離が近く、“庶民的”とも言われる。伝統的な皇室の品位を重んじる立場からは、こうした「なさりよう」に対して良く思わない声もたしかに聞かれる。一方で、海外公務において相手国がこうしたフレンドリーな対応に感動していたことも事実。佳子さま流の国際親善スタイルと心づかいが、ブラジルの多くの人を笑顔にさせた。
皇室が長く大切にしてきたブラジルとの関係は、さらに強固なものになったに違いない。佳子さまはこれからもずっと「佳子さまらしさ」を大切に、たくさんの人を元気づけられるだろう。
(TBSテレビ 社会部・宮内庁担当 岩永優樹)