両親と2人の兄、弟と妹2人の8人家族だった滝澤さん。
国が移民政策を推進する中、8歳のとき、現在の木島平村から満州に渡りました。
ふるさとの山「高社山(こうしゃさん)」から「高社郷」と名付けられた開拓地には、中野市や下高井郡などから移住したおよそ700人が暮らしていました。
冬は氷点下30度まで冷え込む過酷な環境ですが、滝澤さんはあまり辛いと思わなかったそうです。
滝澤さん:
「見渡す限り草原ですね。子どもだったからイヌと一緒に草原を駆け巡ったりしてね」
入植から2年半ほど経った頃、学校の校長や開拓団長が召集され、高社郷にも不穏な空気が漂い始めます。

本の一部:
「子ども心にも戦争という何か得体のしれない怪物がすぐ近くまでやってきているような恐ろしさを感じました」
1945年8月、旧ソ連が日ソ中立条約を破棄し、日本に宣戦を布告。
高社郷開拓団も避難を強いられ、8月10日、逃避行が始まりました。
滝澤さん:
「予告とか話もなくて突然ぱっと来るんですから、本当に考える暇とかそんなになかった」

2番目の兄は青少年義勇軍にいて離れていたため、滝澤さんは両親と一番上の兄を頼りに、3歳と7歳の妹、5歳の弟と長い道のりを歩きました。
生き延びるための、逃避行。
一方で、捕虜になることを拒む「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」という戦前の教えは、兵隊ばかりではなく、一般国民にまで浸透していました。















