よく知らずに疎開させられた西表島はマラリア有病地帯だった
波照間島出身の佐事昇さん(91)は、西表島への疎開を命じられた当時、12歳でした。
▽佐事昇さん(91)
「(西表島が)どんなところかも分からんし、子どもだから。マラリアも西表島にあると分からないし」
1945年4月、西表島へと疎開した波照間島の住民は、南風見田の海岸に小屋を作って生活を始めました。しばらくすると、マラリアに感染した住民が、ひとり、またひとりと、命を落としていきました。
波照間島へ帰ることができたのは、沖縄戦が終結したあとの8月。しかし、故郷の地では、更なる苦しみが待ち受けていました。
▽佐事昇さん(91)
「波照間に終戦になって帰ってからが、食料がなくて苦しかった。みんなソテツを食べた」
旧日本軍は、波照間島の牛や豚を米軍の食料にさせないために、徹底的に処分。そのため、疎開を終え帰島した住民たちは戦後も食料難に陥りました。栄養が不足した住民の間でマラリアがまん延し、死者の数は爆発的に増加。墓に入りきらない数百人の遺体が。島の北側の浜(サコダ浜)に埋められました。
佐事さんもこのとき、3人の家族を亡くしています。
▽佐事昇さん(91)
「お母さんと弟と妹はマラリアで亡くなった。あんなに毎日人が亡くなったらもうなんとも思わんよ。毎日葬式なのに」
家族の死にすら、何も感じなくなるという異常な日々。その発端となった疎開を命じた人物を、佐事さんは覚えていました。
▽佐事昇さん(91)
「山下という人が命令した。『西表島へ疎開しろ』と、あの人のために」
山下虎雄と名乗る人物は、本名を酒井喜代輔(さかいきよすけ)といい、陸軍中野学校を卒業した軍曹でした。RBCが1992年に行った取材に対して、疎開を命じた責任から逃れるような発言をしています。