3月21日は、太平洋戦争末期の1945年、現在・宮崎空港のある旧海軍宮崎基地から特攻隊が初めて出撃した日です。
当時、基地に勤務し出撃した隊員たちのことを戦後、語り部として伝えてきた高鍋町の安田郁子さんが、去年12月に亡くなりました。
安田さんが残した言葉から改めて平和について考えます。
宮崎特攻基地慰霊碑
安田郁子さん「私も戦友だと思います」

かつて、宮崎特攻基地慰霊碑を訪れ、こう話していた安田郁子さん。
戦後50年を迎えた1995年。
当時70歳で主婦だった安田さんは、戦争中の体験をまとめた本、「モスグリーンの青春」を出版しました。
安田郁子さん「若い人が命を大切にしてほしい。あの方たちはやっぱり生きたんですよね。今も生きているんですよね。私の中には」
安田さんは、1944年から終戦まで現在、宮崎空港がある旧海軍宮崎基地に勤務。


土地の測量作業や飛行機を敵の爆撃から守るための格納庫、掩体壕の設計を担当していました。
そうした中、1945年3月21日を皮切りに、宮崎基地からも特攻隊が次々と出撃。安田さんは、こうした基地での体験を本にまとめ語り部としても活動を始めました。
安田郁子さん「1人の少年兵が部屋に入らずにすっと小川の縁の竹やぶの中に入りました。私は水面は見えるんですよね。そしたらね。小川の上にいくつもいくつも涙の輪が出来て今でも雨が降って思い出します。忘れることはできません」

中でも特に記憶に残っているのが・・。
安田郁子さん「第5銀河隊の隊長さんこの方なんです。山本裕之大尉 この方の腕に日の丸の・・」

出撃前の山本大尉から頼まれ、袖に日の丸を縫い付けました。

安田郁子さん「ここに今生きているけど、あと何分か後で永久にこの世から消える人のここ(袖に)日の丸をつけてあげるとね思っただけでぐっときて『そんなに一生懸命つけないでいいんだよ』って私なんかの代わりに行ってくださる人が、そう言われるの、また涙が出る今でも忘れることはできない」