12月8日、真珠湾攻撃から84年を迎えました。破滅への道を進むなかで戦意高揚のシンボルとして作り出されたのが「軍神」です。どのように仕立てられ、国民は先導されていったのか。一人の軍神の姿から考えます。

沖縄初の「軍神」大舛松市

その名は、大舛松市(おおます・まついち)。沖縄で初めて「軍神」と呼ばれた男だ。ガダルカナル島で戦死後、根こそぎ動員の精神的象徴に仕立てられた。

「全県民 大舛精神に続け」。それは軍部とメディアが一体となって導いたものだった。

那覇市の丘にひっそりと立つ「戦没新聞人の碑」。80年前、沖縄の戦場で命を落とした14人の新聞記者の名の横には_

「砲煙弾雨の下で新聞人たちは二か月にわたり新聞の発行を続けた」
「その任務を果たして戦死した十四人の霊はここに眠っている」

だが、果たせなかった任務にこそ思いをいたしたい。沖縄に移住し、記者として沖縄戦の記憶継承に取り組む藤原健さんは、“新聞人”として考える。

琉球新報客員編集委員・毎日新聞客員編集委員 藤原健さん
「それは、何を書いたかということが書かれていない。軍に協力し、国策に協力し、つまりは戦争に協力したということについては書かれていない。したがって、その反省も書かれていない」

当時、大政翼賛体制に組み込まれた新聞は、言論を厳しく統制された。その一つが、地方の複数ある新聞を統合する「一県一紙政策」だ。三紙あった沖縄の新聞は1940年12月、一紙に統合され「沖縄新報」に。「高度国防国家の建設へ微力を尽くす」とまで宣言した。

藤原健さん
「肌色の違う論が展開されていたり、たくさん論が並ぶと軍としても困るので、一県一紙ということは『一県一論にせよ、あげて軍に協力せよ』」

その沖縄新報や全国紙が、ならんで力を入れたのが「軍神報道」だ。

琉球大学元教授の保坂廣志さん。戦争とジャーナリズムを研究してきた。

琉球大学元教授 保坂廣志さん
「戦争は三つの条件から成り立っている。一つ目は人の動員、二つ目は物の動員、三つ目が心の動員で、一番これが難しいと言われている。『軍神』を作り、軍神というものがいかに国民の中に一体化しているか訴える。それをメディア、政府などの機関が利用しながら国民を煽っていく。戦意高揚のための、あるいは人の心の動員のためには一番これがわかりやすい」

太平洋戦争では、真珠湾攻撃の「九軍神」をはじめに、545の個人と部隊が軍神とされた。軍神は、どう仕立てられていくのか。著しい功績を残して戦死したと判断した兵士や部隊に対し、主に司令官が「感状」という表彰状を作り、陸海軍大臣が天皇に報告を上げる。

保坂廣志さん
「報告した瞬間に、報告された個人や部隊は、『軍神』という名前を持った別の人格を持ったものに変わっていく。戦場死した者に対して特別な感謝状を天皇に報告するというのが、『感状上聞に達する』という言葉で表現されます」

感状上聞に達した沖縄初の人物、それが大舛松市だった。その死と軍神になったことが伝えられたのは、戦死から9か月後。開戦の日にちなみ設けられた毎月8日の大詔奉戴日に掲載される、昭和天皇の開戦詔書と合わせて報じられた。

那覇から西の海を越え500キロ。大舛は、1917年、日本最西端の与那国島で生を受けた。寡黙な少年はとても優秀で、両親が勧める師範学校への進学を拒み、ある意思を押し通した。末の妹、山田恵子さんが、その意思の強さを語る。

山田恵子さん
「『費用も大変だから師範学校に行きなさい』と言ったら、駄々こねてヒステリーを起こして寝込んで、『ご飯食べなさい』と言っても食べないで反抗して、『必ず一中に行くんだ』って大変だったらしいんです」

そして進んだ沖縄本島・首里の沖縄県立第一中学校。首席で卒業し、陸軍士官学校に現役合格する。それは地元紙で報道された。

東京・市ヶ谷の防衛省に、その校舎の一部が残る。ここに大舛の姿があった。大舛が入校式に臨んだ大講堂は、戦後、東京裁判が行われた場所でもある。

入校式の日の日記には_

大舛松市陸士在学日誌(1937年4月1日)
「的ヲ狙ツテ矢ハ放タレタ。一路皇軍ノ一員トシテ御奉公ノ道へ。コノ喜ビ、コノ感激」

一方、沖縄への認識に、憤慨する姿もある。

大舛松市陸士在学日誌(1937年5月7日)
「『琉球ッテドンナ處ダイ』トテ、認識不足モ甚ダシキ事ヲ言フ者アリ。高等教育ヲ受ケシモノニシテモ然リト、先輩ヨリ聞キタル言ナレド、今自己ノ眼前二事実トナリテ展開サレタルハ無念ナリ」

そんな大舛と妹の恵子さんが時を共にしたのは、たった一度だけだ。

陸軍士官学校を卒業し、4年ぶりに与那国に戻った兄を橋の手前で待っていた。そして、生まれて初めて顔を合わせた十山橋。この橋の上で兄を見上げると、二人は手をつないだ。

山田恵子さん
「間違いなく左手をとられて歩いたのを覚えている。実際に触れたのはこれだけ」

橋から家まで歩いた数分間。それが、当時3歳半の恵子さんに唯一色濃く残る、兄の記憶だ。

その3年後、兄は重傷を負いながら刀を抜いて突撃したことが、武勲とされた。

山田恵子さん
「母は悲しくても泣けない。軍国の母は泣いちゃいけないと言われていたのか。覚悟はしていたと思う、父も母も」

父は畑で作業中、ガジュマルの木の下で休憩しているところに、息子の戦死の報が届き、「万歳」と叫んだといわれている。

それから、すさまじいばかりの顕彰運動が始まった。