1993年3月、東京地検特捜部は「政界のドン」と呼ばれた金丸元自民党副総裁を脱税容疑で電撃的に逮捕した。捜査が実を結んだ要因は、少人数による、徹底した「情報管理」だった。その「極秘捜査チーム」の精鋭の検事4人の中に、若手ながら唯一、抜擢されたのが北島孝久である。金丸の次男から重要な供述を得た北島。特捜部の90年代の事件捜査を支え、特捜部に身を捧げ、若くして急逝した。
今年も暑い季節が巡ってきた。毎年7月、北島の命日を迎えるたびに、ふと関西弁の優しい声が聞こえてくる。「伝説の検事」を述懐する。
<全10回( #1 / #2 / #3 / #4 / #5 / #6 / #7 / #8 / #9 / #10 )敬称略>
◆事件の自慢話や手柄話はしない
金丸脱税捜査に「極秘捜査チーム」の一員として関わった北島孝久検事は、大手ゼネコン各社への家宅捜索から波及した、自治体トップや国会議員の摘発にも関わり、続く1年以上にわたる一連の「ゼネコン汚職事件」の捜査でも手腕を発揮し、1995年に法務省刑事局に異動した。
その2年後の1997年、金丸事件の主任検事だった熊﨑が特捜部長に就任すると、再び熊﨑から「特捜部に来てほしい」と声が掛かった。ただし、法務省刑事局の局付検事のまま、応援として特捜部の捜査に加わった。いかに熊﨑から信頼されていたのかを、如実に示す異動だった。
そしてここでも野村証券や第一勧銀からの「総会屋への利益供与事件」から始まり、「大蔵省接待汚職」まで続いた一連の金融経済事件で、特捜部の要として「チーム熊﨑」を支えた。北島はその後、特捜部の副部長をつとめたあと、2006年に退官する。2006年12月、熊﨑が設立した「熊﨑総合法律事務所」に迎えられ、その後も多方面で弁護士活動をしていたが、2015年7月29日に58歳の若さで亡くなった。

1990年代に特捜部が手掛けた一連の金融経済事件は、日本で長く続いてきた「政官財の癒着」「なれ合いの構造」にメスを入れたことにより、その後の金融ビッグバンに繋がっていった。筆者はこの間、北島の上司にあたる熊﨑(特捜部副部長、特捜部長時代)に日々張り付き、取材をしていた。熊﨑と井の頭線の「駒場東大前」の官舎近くのスナックで飲んでいると時折、北島が呼ばれて合流することがあった。
筆者と北島は同じ関西出身ということで意気投合し、汚職はなぜ行政をゆがめるのか、国会議員の職務権限の範囲をどう捉えるか、、、など熱く議論を交わした。その後も北島は「平検事まわりは自重せなあかんやろ」と言いながら、対応してくれた。個別の事件について多くを語ることはなかったが、「いったい特捜検事とは何者なのか」「特捜事件の意義とは何なのか」少しづつ、本心をさらけ出してくれた。筆者にとって特捜部の実像を知る上で、折に触れて多くを学ばせてもらった。

当時の検察は、マスコミの「前打ち報道」「平検事への個別取材」に非常にナーバスになっており、司法担当が特捜部幹部以外のいわゆる「平検事」、現場の検事への「夜討ち朝駆け」を暗黙の禁止にしていた。一方で副部長時代の熊﨑は、「平検事」のうちから、たまには記者とのやりとりに慣れて「記者とはどういう奴らなのか」を理解することは、必ずしも検事にマイナスにはならないと言い、捜査の節目節目で特捜部の北島ら若手検事を、駒場東大前のスナックに呼んでくれたのだ。熊﨑の度量の広さをよく表すエピソードであり、熊﨑流「記者掌握術」の一端である。