BC級戦犯として処刑された藤中松雄。松雄の御遺族に、戦争中の松雄がどう動いたのかが分かる「軍歴」を取り寄せてもらった。20歳で徴兵され、終戦時には下士官だった松雄。およそ4年間の記録はわずか1枚。2枚目に記された死刑執行の文字は赤で記されていた。軍歴は何を語るのかー。
◆遺族に取り寄せてもらった“軍歴”

藤中松雄の次男、孝幸さんをお訪ねしたときに、私は一つお願いをした。それは藤中松雄の軍歴を取り寄せてほしいというものだった。戦争に行った人にはそれぞれ軍歴がつくられていて、旧陸軍は都道府県、旧海軍は厚生労働省に申請すればコピーを提供してくれる。個人情報なので、申請者が近しい親族であることが確認できる戸籍、死亡年月日が確認できる戸籍(除籍)、申請する親族の住民票や本人確認が出来る書類(運転免許証や健康保険証などのコピー)を揃えなくてはならない。面倒な手間をおかけしてしまうが、孝幸さんは快く申請してくださった。
◆従軍した4年間は1枚に

1か月ほどで、厚労省から封筒が孝幸さんの元に届いた。黄味がかった色の2枚の紙。2枚目の記載は4分の1にも満たない。20歳の召集から終戦までおよそ4年間の軍歴は、1枚目に収まっていた。
昭和16年12月1日 現役編入
昭和17年1月10日 佐世保第二海兵団 入団 海軍四等水兵を命ず
上坂冬子の著作「巣鴨プリズン13号鉄扉」(新潮社、1981年)では、公判記録によるとラバウルやニューギニアへ行ったという記載があったので、そういうものが書いてあるかと思ったが、なかった。昭和17年4月15日から海上勤務となっているので作戦で向かった先がそうなのだろう。昭和19年には佐世保海軍病院に入っている。その年の9月には、千葉県の館山海軍砲術学校に派遣。翌10月、戦犯に問われる事件の舞台となる石垣島警備隊に赴任した。階級は終戦時には一等兵曹の下士官だった。