1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾。9歳以下の子ども約7万3000人が被爆しました。TBSテレビ「つなぐ、つながるSP 戦争と子どもたち 2023→1945」では、当時3歳で被爆した男性を取材。母と姉を失った男性は、78年後のいまも「自分だけが生き残った罪悪感」に苦しむといいます。

「お母ちゃん助けて」1日5回ぐらい声が出る

飯田國彦さん、81歳。あの日、母と姉と一緒にいた場所は、爆心地からわずか900メートルでした。

小川彩佳キャスター
「何があったか教えていただけますか?」

飯田國彦さん(81)
「すぐにバーっと吹き上げられて、それからドーンと落ちて、どれぐらい時間経ったかわかりませんが、真っ暗になって、そして『お母ちゃん助けて』と何回も言おうとしたんですけど、声が出てこない。言えなかったんですね。恐怖でしょうね」

すさまじい熱風と爆風で、爆心地から半径2kmは焦土と化し、14万人が死亡。9歳以下の子ども約7万3000人が被爆し、約8000人が命を落としました。

飯田さんの記憶を元に描かれた絵には、瀕死の重傷を負った人たちで、溢れかえっていた様子が描かれています。

「おびただしい遺体」作・サンガー梨里 所蔵・広島平和記念資料館

78年経った今も、あの時の記憶が蘇るのです。

飯田さん
「多い時は1日に5回ぐらい声が出るんですよ。『お母ちゃん助けて』という声が出るんです。突然出てくる。助けてもらいたいと思ってないのに、声だけ出る」

母と姉は、被爆直後、命を長らえていましたが、1か月経って原爆症で亡くなったのです。

その時、まだ幼かった飯田さん。

しかし、自分だけが生き残ったことに、自責の念を感じてしまうといいます。

飯田さん
「自分を責める、そういう心理がだんだん働いて…それがつらかったですね。『お母ちゃん助けて』という声が出る。その声の意味は『許して』と言ってるんじゃないかと思うんですよ」