なぜ被爆地となったのか 広島は「軍都、加害の町だった」

その現場を何度も目撃していたのが、当時15歳の切明千枝子さんだ。

切明千枝子さん
「山のように積み上げては油をかけて焼き、そこに穴を掘っては埋め、川のほとりだったら焼けた骨は川の中に捨てる。もうむごいもんでしたね」

切明さん自身も、学校の校庭に穴を掘り、犠牲になった友人を火葬した経験を持つ。

切明千枝子さん
「何人焼いたかわかりません。覚えてないです、人数は。次から次へ、かわいそうでした」

なぜ、広島は悲惨な被爆地となったのか。『はだしのゲン』に、こんな場面がある。

『はだしのゲン』より抜粋
「広島市は軍都として栄えた都市でもあります。宇品の波止場からは南方の戦地へ送り出される兵士であふれていました」

その桟橋の跡が残る旧宇品港。ここは、陸軍出兵の拠点だった。

切明千枝子さん
「小学生のころ、日中戦争が始まったら毎日、毎日、先生に連れられて、宇品の波止場まで行くんですよ。兵隊さんを戦場に送る、旗ふって、万歳万歳って」

広島にはかつて大本営が置かれ、帝国議会も開かれたことがある。

切明千枝子さん
「広島は発進地でもあったし、武器、弾薬、軍服、そんなものの供給地でもあったし、まさに軍都、加害の町だったと思いますね。だからそのことを忘れて抜きにして、原爆の被害を語ることは出来んと思いますよ」

そんな軍都・広島を体現する建物が残っている。軍服などを製造、貯蔵していた陸軍被服支廠だ。被爆を乗り越えた最大級の建物で、保存への動きが高まっている。切明さんは、ここで軍服を洗濯する仕事に動員されていた。

切明千枝子さん
「タバコの焼け焦げかなと思って反対側を見たら、血がべたっとついている。銃弾が貫通しとるんですよ。新しい布がなかったのか、古着を処分しないでもう一度使うという算段だったんでしょうね。こんなことで勝てるんかなと思った。神風は吹きませんでしたね。原爆の爆風が吹きました」

レンガ倉庫は被爆後、負傷者の救護所となり、切明さんの祖母も運び込まれていた。

切明千枝子さん
「1階の入り口はいってすぐのところに寝かされていた。息が詰まりそうだから外へ出してくれ出してくれというんですよ。一刻もここの中には、ようおらんって。阿鼻叫喚の巷になっている。糞尿垂れ流し、やけどの臭い、血膿の臭い。死んでもいいから外へ出してくれと」